一六〇三年(慶長八)二月、徳川家康が征夷大将軍に就任することによって天下の情勢は確定した。諸大名は伏見に在城する家康に出仕するだけでなく、江戸に下向して秀忠に参勤する者が相ついだ。すでに嫡子の秀就を江戸に差し出していた輝元も、同年四月十六日に伏見をたち、江戸に下向して五月七日に秀忠に謁した。ついで伏見に帰邸した後、家康から帰国築城の許可を得て、九月二十一日に伏見を発して十月四日に山口の覚王寺に入った。輝元は帰国ののち領内諸城の構築を強化し、引き続いて居城新築のための城地の選定にとりかかった。候補地として防府の桑山・山口の高嶺・萩の指月山を選び、翌一六〇四年一月に福原広俊が絵図面を携えて江戸に上り、幕府に意見を求めた。毛利氏は桑山か高嶺を希望したが、幕府との交渉の結果、老中本多正信・正純父子の強い勧めで萩の指月山に決定した。
幕府の許可を得て二月十八日に縄張りが行われ、築城工事にとりかかった。未完成であったが、十一月十一日に輝元は山口をたって萩に入城した。入城後も引き続き工事は進められ、翌年には家臣への屋敷割りを実施し、さらには城下町の経営にも取りかかり、一六〇八年六月に至って漸く完成した。
このようにして、萩城を本拠にした毛利氏の領国経営が展開されることになり、ここに萩藩の成立をみることになったのである。