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家臣団の整備

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 萩藩の藩政は、六カ国返租問題の解決や萩城建設への取り組みから始まったのであるが、家臣団の整備や財政の再建と領政の立て直しなど、なおいくつかの困難な問題を抱えていた。とりわけ、関ケ原の役さなかに分裂した家中を立て直して、一致協力体制をつくり上げていくことが緊急の課題であった。
 削封された領国のなかで、毛利氏は家臣の知行を大幅に減知して旧来の五分の一とし、また防長への移動に際して、備中や伯耆など遠国の家臣を中心にして一部の召し放ちが行われ、領国の維持を図ろうとしたのであるが、動揺した家中をまとめることは容易でなかった。
 毛利氏の家中では、古くは元就時代に井上元兼誅伐事件や和智誠春誅伐事件があり、輝元の代にも市川元教・杉重良・上原元将などの背反事件が起こっている。一五八二年(天正十)に秀吉と和睦した後、八〇年代(天正期の後半)には一応のまとまりをみせていたのであるが、朝鮮出兵中に起こった吉川広家と安国寺恵瓊の対立が、関ケ原の役での毛利氏の行動に大きな影響を与えた。これがきっかけとなって、毛利氏の家中は主戦派と和平派に分かれ、さらには毛利秀元と益田元祥との間にも対立が生じ、それがしこりとなって長く尾を引いた。
 これらの家中の動揺を抑えるために、一六〇一年(慶長六)に輝元はまず吉川広家と誓詞の交換を行い、ついで毛利秀元や天野元政を初めとする一門以下の重臣層に起請文の提出を求め、家中の安定を図っていこうとした。そうした動きのなかで、一六〇四年の暮に吉見広長の出奔事件、翌年七月には熊谷元直の誅伐事件が起こった。吉見・熊谷氏はともに重臣であったから、輝元はこの二つの事件に厳しく対処することによって家中の動揺を抑え、藩主を中心にした権力機構を強化して、以後の家臣団統制を円滑に進めていった。その過程で家臣団の再編成が行われ、しだいに身分と家格が整備され、やがて役職と相関関係をもって固定されていくようになる。次に家臣団の階級について主なものをみておこう。
 宗藩の藩主に次ぐものとして、支藩の長府・徳山・清末の各毛利家と、これに準ずる岩国吉川家があった。長府毛利家は毛利秀元が一六〇〇年に興し、徳山毛利家は輝元の二男就隆が一七年(元和三)に周防国都濃郡の内三万石を分知され、清末毛利家は長府毛利家の祖秀元の二男元知が五三年(承応二)に長門国豊浦郡の内一万石を分知されて成立した長府藩の支藩である。岩国吉川家は江戸時代には支藩として認められなかったが、広家が一六〇〇年に玖珂郡岩国を中心に三万石を与えられて独立し、他の三支藩と同じように本藩から自立して独自の領政を展開した。
 本藩の直属家臣として最高の家格を認められていたのは、宍戸・右田毛利・厚狭毛利・吉敷毛利・阿川毛利・大野毛利の六家と、永代家老としてこれに準ずる待遇を受けた益田・福原両家があった。この八家を総称して一門八家と呼んだ。
 一門筆頭の宍戸氏は元就長女の婚家で、夫の隆家は吉川元春・小早川隆景と並んで重用された。孫の元続の代に防長に移住したのであるが、初めは佐波郡右田を采地とし、一六二五年(寛永二)の知行替えで熊毛郡三丘に移り、代々三丘を本拠とした。右田毛利氏は元就七男元政のとき熊毛郡三丘に配され、後に元倶のときに宍戸氏と入れ代わって佐波郡右田に移った。厚狭毛利氏は元就八男元康から分かれ、初め厚狭郡荒滝を本拠にしたが、元宣のときに同郡厚狭(山陽町)に移った。吉敷毛利氏は元就九男で小早川隆景の養子となった秀包の子元鎮が豊浦郡滝部に知行地を与えられ、後に福原元俊と交替して吉敷郡吉敷に移った。阿川毛利氏は吉川元春の二男元氏が周防の名族仁保氏を継ぎ、後に繁沢氏を称していたが、毛利氏の防長移封に際して、玖珂郡椙杜を与えられ、寛永の知行替えで元景が豊浦郡阿川に移った。大野毛利氏は吉川広家の二男就頼が石見の名族吉見氏を相続し、後に毛利姓に改めて熊毛郡大野を領邑とした。益田氏は山陰の名族で、毛利氏に従って阿武郡須佐に移り、代々須佐を本拠とした。福原氏は毛利氏の分かれであり、毛利家譜代家臣の筆頭として重用されてきたが、広俊のときに毛利氏に従って吉敷郡吉敷に移り、後に元俊のとき厚狭郡宇部に移住した。

毛利氏略系図(Ⅱ)

 一門八家に次ぐ重臣として寄組が組織された。寄組とは毛利氏の家臣団を組み分け編成した各組に組頭として配され、これを統括寄力することから起こった名称である。一六五〇年代(万治年間)に約二〇家、一八世紀初め(享保期)には七〇家近くあった。家格は五〇〇〇石以下、一〇〇〇石以上の禄高が基準とされたが、飯田氏の二五〇石など特例もあった。寄組には組頭を設けないで家老の直属とした。家老には一門八家が永代家老として任ぜられたが、寄組からも一〇〇〇石以上の者のうち特にすぐれた者が一代家老として起用され、政務の要衝に当たった。
 寄組に次ぐ中堅家臣団には、陸上勤務の大組と海上勤務の船手組とがあった。大組は馬廻り組あるいは八組とも称し、寄組の士が組頭としてこれを統轄した。人数も初期には五〇〇名前後であったが、幕末には一〇〇〇名を超えた。禄高は一六〇〇石から四〇石の間であった。船手組は禄高五〇〇石から四〇石までの士で、家格は大組と同格であった。主として藩の海上交通その他船舶に関する業務に従事した。初めは下松に御船倉を設けていたが、まもなく(慶長年間)佐波郡三田尻(防府市)に移して(第二章、3)、船手組の士を常駐させるようになった。古くは七組あったが、次第に整理統合されて一六六九年(寛文九)に二組となり、組頭には寄組の両村上氏が起用されて代々世襲した。人数は平均して三二~三三名であった。
 大組・船手組の下に、遠近付・寺社組・無給通・鷹匠・鵜匠・膳夫・大船頭・陣僧・三十人通・御細工人・船大工・足軽・中間・舸子・梶取などの職務身分があった。これらの中には、それぞれの職業をもって仕えていたものが、世襲化するにつれて固定した階層身分になったものも多い。
 このように、家臣団の組織も輝元・秀就の時期にほぼ整備された。家臣団の総数は初期には三〇〇〇名前後であったが、幕末には倍近くにまで増加した。