関ケ原の役後、輝元は政務から退いて、代わって秀就が初代藩主に就任した。秀就はこのときわずか六歳で、しかも江戸に下向するよう命ぜられていたので、領国に下って直接政治に携わることはできなかった。また輝元も長年の辛労から気力が衰えており、後見役を必要としていた。
関ケ原の役から続いていた家中のしこりのため、後見役をすぐに選ぶことは困難であったが、輝元は一六〇五年(慶長十)までに家中の結束をはかり、吉川広家と毛利秀元を和解させたあと、秀元を後見役に起用した。
秀元の後見政治は翌年から始まり、一六一〇年(慶長十五)の検地、元和の財政改革、寛永検地と知行替えなどに鮮やかな手腕をみせた。秀元の後見政治によって藩体制はしだいに整備され、家臣も秀元・益田元祥のラインを中心にして一本にまとまりつつあった。この過程で吉川広家・福原広俊ラインは後退を余儀なくされたが、家臣の間には秀元ラインに反発する動きも根強かった。この動きは一六二五年(寛永二)四月に、輝元が萩城内で七三年の生涯を閉じた後、同年八月に行われた知行替えに不満を持つ家臣たちによって強められていく。
また成人した秀就にとっても、秀元の後見は迷惑であった。一方、整備された藩権力機構の中から、支藩の干渉を抑えて自立体制を確立し、本藩の宗主権を主張して、支藩を統制しようとする動きも現れた。
このような動きの中で、秀元を藩権力の中枢から締め出し、同時に支藩の徳山藩をも本藩の支配下に統制しようとする動きが出てきた。このために本藩と支藩との間に激しい対立が生じたのであるが、秀元の後見役辞退と幕府の周旋で何とか解決をみた。
宗主権を取り戻した秀就は、以後、十七世紀前半(寛永~慶安期)に積極的に領国整備に取り組んでいく。正保の財政改革、職制の整備、宰判制度による地方支配機構の確立などみるべきものが多いが、とりわけ法制の整備を促進して、やがて次の綱広の代に「万治制法」として結晶させたことはひときわ異彩を放つ。
一六五一年(慶安四)に二代藩主に就任した綱広は、父秀就の遺志を継承して、六〇年(万治三)から翌六一年(寛文元)にかけて、「元就公以来の旧記」および幕府法を参酌して、領内法二九編を制定した。主要法令が万治三年九月十四日に制定されたので、総称して「万治制法」と呼んでいる。
万治制法は、「当家制法条々」・「諸寺法度条々・社家法度条々」・「町方条々」・「郡中制法条々」などの二九編から成り、家中・寺社・町人・農民など領内全般を対象に制定された大規模な法典である。これらの法令のうち、主要な法令の原型はすでに綱広襲封直後の五一~五二年(慶安四~五)にはでき上っていた。
これらのことから、秀就の後半期には領国の整備が進展し、綱広の時に法体系の整備も行われて、万治~寛文段階に藩政が確立されたということができよう。