さきに述べたように、萩藩は出発の当初から財政面では困難な問題が山積していた。そのため、徹底した倹約と家臣団に対する大幅な減知によって、財源を捻出する必要に迫られた。領国は従来の四分の一に縮小され、それに対応して家臣の知行は原則として五分の一に減額された。これは差額の二〇分の一を藩庫に入れるための苦肉の策であったといえよう。
当時の防長両国の石高は二九万八四八〇石余で、物成総高は租率七三パーセントの二一万七八九〇石余であった。このうち約一〇万石を家臣に配賦し、残りの一一万余石(一六〇七~九年=慶長一二~一四の蔵入収入も一二~一三万石であったから、初期の蔵入は大体一定していたようである)で藩の諸経費を賄うことにしたが、その中には六カ国返租や萩城普請の工事費も含まれていたのであるから、藩倉はまさに火の車であった。
そのうえ、幕府からたびたび命ぜられた普請工事の手伝いは、計り知れない負担となった。一六〇二年から一四年までの一三年間に、伏見城・江戸城・駿府城・丹波篠山城・名古屋城などの普請工事に八回も徴発されている。
また、一六三五年(寛永十二)から制度化された参勤交代に伴う諸経費、大坂の役・隣藩福島正則の改易や島原の乱などに出陣した軍役負担なども、初期の藩財政を大いに苦しめた。ことに江戸での経費増が累積赤字となって藩財政を圧迫したといわれるほど、参勤交代の制度化と江戸藩邸での生活費は大きな負担となった。
一六二三年(元和九)には早くも累積赤字が銀四〇〇〇貫目(米にして一六万石)に達し、財政改革の必要に迫られた。このときの改革は長府藩主毛利秀元を後見役に据え、益田元祥・清水景治を起用して始められ、徹底的な倹政と、家臣から禄高に応じた馳走銀を徴収することによって対処しようとした。三二年(寛永九)までかかってようやく負債を整理し、逆に一七〇〇貫目を貯蔵することができた。その後また負債が生じ始め、四一年に銀七〇〇貫目、四二年に二〇〇〇貫目、そして四四年(正保元)には元利合計四〇〇〇貫目を超える藩債を抱え込むことになった。しかも恒常的に一五〇〇貫目くらいの赤字があったので、四六年には負債総額が六二〇〇貫目を超えた。そのため益田元祥の孫元尭を起用して再び藩政改革を行うことになった。これが正保の改革で、前回同様に徹底的な倹約政策と家臣からの強制借り上げで処理した。この時家臣に平均二歩(二〇パーセント)の借知を命じたことから、後世これを正保の二歩減と称した。これらの改革で一時的な小康を得たが、根本的な解決とはならず、幕末までたびたび藩政改革が行われた。
これらの諸問題に対処して累積赤字を解消していくためには、当時農業以外に主要な生産手段をもたなかった萩藩としては、さしあたりは徹底的な倹政と士民からの強制借り上げに頼らざるをえなかったが、その抜本的な解決を図るには、検地による増石に期待するしかなかった。