ビューア該当ページ

検地と土地制度

231 ~ 234 / 1124ページ
 毛利氏の分国検地は、古くは一五八八年(天正十六)から始まった惣国検地(天正検地)や、それを確認した九五年(文禄四)の検地などがあったが、これらの検地では三六〇歩=一段の古制が採用されており、まだ石高制に統一されていなかった。
 天正検地の詳細は不明であるが、現存する「打渡坪付帳」でみると、面積表示は三六〇歩=一段制の古法により、大(三六〇歩)・半(一八〇歩)・小(一二〇歩)制が採用されている。田畠が課税対象となり、田は分米高、畠は分銭高で表示されている。これは田方は米納、畠方は銭納を原則としていたことを示すものであろう。屋敷の記載もあるが、大部分は屋敷数のみである。
 毛利氏の領国で、石高制に統一された太閤検地の方針が貫徹するようになるのは、一五九七年(慶長二)から始まり一六〇〇年に終了した惣国検地においてである。この検地は検地奉行の兼重和泉守元続・蔵田与三兵衛尉元連の名を冠して「兼重・蔵田検地」ともいう。また慶長五年にまとめられたので「慶長五年検地」ともいう。
 この検地では三〇〇歩=一段制を採用し、田畠の等級を六段階ないしは九段階に分け、屋敷も一律に課税対象にしている。畠や屋敷は分銭高で表示され、これを一石=一貫に換算して石高で表示し、太閤検地の方針に従っている。
 検地の結果、防長両国の田畠面積は三万七九〇〇余町歩、高二九万八四八〇石余、物成二一万七八九〇石余に決定した。租率は平均して七三パーセントであった。この結果に基づいて、蔵入地の設定や、支藩以下家臣たちに知行地が配賦された。
 慶長五年検地による蔵入収入は前述のように約一一万石であった。この中から藩の経常経費や臨時の出費を賄うことは容易でなく、その上この検地は不十分なままに収束されたので、これらの問題を解決するために、一六〇七年(慶長十二)から一六一〇年にかけて再び検地が行われた。検地奉行に三井但馬守元信・蔵田与三兵衛元連が起用されたので、両人の名前をとって「三井・蔵田検地」、あるいは検地完了の時期をとって「慶長十五年検地」とも呼んでいる。
 この検地の基本方針は、一段=三〇〇歩制、六尺五寸=一間制、労働人口(六〇~一五歳)の確保、田畠等級の五段階分け、畠・屋敷の石高換算(実際は銀納)、茶・楮・桑などへの石盛(小成物)、御立山の制定と入会山の規定、鉱山収入等への石盛などである。
 前回の検地に比べて、田畠面積では二四・八パーセント増の四万七二八九町歩、総石高では実に八〇・七パーセント増の五三万九二八六石余へと飛躍的に増加した。田畠以外の収入が六万七〇〇〇石近くあったことも著しい特色である。しかも租率は前回と同じように七三パーセントであったから、租米は一七万石を超える増収であった。
 この強引な検地の強行に対して、玖珂郡山代地方では猛烈な反対一揆が起こり、庄屋以下一一名の首謀者が斬首されるほどのすさまじいものであった。
 この検地が財政難打開のために、高石打出しを直接の目的としたことはいうまでもないが、積極的に本百姓の創出を行って労働人口の確保を図ったことや、以後の萩藩の土地制度の規範となったことなどに大きな意義をもつ。また、この検地に基づいて家臣団への知行配賦も本格的に実施されたのであるが、その実態については明らかにしえない。
 なお、萩藩ではこの検地の結果をもって防長両国の石高として幕府に報告しようとしたが、事前に相談した老中本多正純の意見に従って、一六一三年(慶長十八)に三六万九四一一石余として上申し、以後この石高が長く萩藩の公称高になった。本多正純は、領国高の大幅な増加は公役負担の増加につながるので、ついにはその負担に堪えなくなるであろうとして、隣藩の福島氏並みの増加率に抑えるように忠告したのである。しかし、すでに領内では家臣団への知行配賦が行われていたので、この数字は領内では実用されず、幕府への報告書など公式文書に用いられるだけで、最初から架空の数字であった。
 慶長十五年検地によって、知行制の確立・土地制度の整備は本格的に行われたが、藩初以来の財政難の根本的な解決はできず、累積する負債は膨大なものとなり、ついに一六二三年(元和九)には銀四〇〇〇貫目に達し、再び財政の立て直しを図る必要に迫られた。このような中で実施されたのが寛永検地である。
 寛永検地は、一六二一年(元和七)から二四年(寛永元)までの四年間の実収貢租を平均し、租率を従来の七三パーセントから五〇パーセントに下げても、従来どおりの実収高を確保できるように帳簿上の操作を行ったものとされている。このように実収入を平均したという意味で、寛永検地のことを「抨検地」ともいう。また、検地奉行熊野藤兵衛就郷の名をとって「熊野検地」とも呼んだ。
 寛永検地では、総石高六五万八二九九石余と前回に比べて約一二万石増加しているが、逆に田畠面積は四万一九八八町歩と減少している。
 寛永検地は元和の財政改革の一環として行われたもので、租率を下げながら収入を増してその増加分を藩庫に吸収し、また家臣団の知行替えで浮かせた収益も藩庫に納め、財政再建の財源を捻出することを大きな目的とした。ことに、後者は知行権を確立して藩権力を強化していく上にも大きな意義をもった。具体的には、検地に際して家臣団から知行地を上表させていたが、検地の結果に基づいて家臣団の総知行替えを行い、新知行地で従前のままの禄高を与え、その差額を藩庫に取り込んだのである。また、この時の知行替えで経済的要地を積極的に蔵入地に編入した。たとえば城下町周辺の阿武郡一帯、佐波郡や玖珂郡奥地の紙生産地、阿武・美祢・玖珂郡の鉱山地帯、吉敷・都濃・熊毛郡の主要港町の直轄地化が行われたのは著しい特色である。
 このようにして、藩初から検地施行のたびごとに領国高の増加が図られてきた。この後の貞享検地で萩藩領の石高は八一万八四八七石余、宝暦検地では八九万二一〇〇石余と着実に増加し、幕末には約一〇〇万石に達した。またこれと同時に、検地のたびごとに土地制度や知行制度など、領国の整備も進められていったのである。