一六〇〇年(慶長五)の関ケ原戦後、防長二カ国に減封された毛利輝元は、長府に毛利秀元を、岩国に吉川広家を置いて、二支藩を設定した。この二人は、毛利の両川(吉川元春、小早川隆景)の後継者と目されていた人物である。ついで一六一七年(元和三)輝元は、その子就隆に下松を中心に都濃郡の過半三万石を分知した。三つ目の支藩下松藩の創設である。下松藩と呼ぶのは、この支藩領の中心が下松にあり、何よりもその館(陣屋、屋敷ともいう)が当初下松にあったからである。また当時も「長府・下松・岩国御領」といった呼び方をしており(山口県文書館蔵毛利家文庫「大記録」万治二年(一六五九)の史料)、支藩庁の徳山移転後も、しばらくは「下松御領」と呼ばれていた。現在の下松市域との関連をみると、分知当初の一六一七年には、現市域の実に全域が下松藩領であった(図1)。二一年の替地によって、切山村・末武村(笠戸も含む)・下谷村・中須南が本藩に返還されたものの、なお東西豊井村・河内村・山田村・生野屋村・瀬戸村・温見村・大藤谷村といった、現市域の過半が、下松藩領(またのちの徳山藩領)として残った(図2)。このように現下松市域と下松藩・徳山藩は、きわめて密接な関係があり、下松藩を抜きにしては、近世の下松は語れないのである。
図1 1617年分知当初の下松藩域概念図
図2 1621年替地以後の下松藩域概念図