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藩祖就隆と江戸下向

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 下松藩の藩祖毛利就隆は、一六〇二年(慶長七)九月三日に、毛利輝元の二男として、伏見で生まれた。幼名を百助という。関ケ原戦後輝元はしばらく帰国を許されず、伏見に詰めて公辺の奉公をしていた。輝元の長子秀就は、前年から証人(初期は人質的意味あいがあった)として在江戸していた。就隆の母は、秀就と同じく児玉元良の女(輝元の側室二の丸、法名清泰院栄誉周慶大姉)で、一六〇三年輝元の帰国にともない百助を連れて山口入りしたが、翌年七月晦日に卒した。就隆は、三歳(数え年、以下同じ)で母を亡くしたことになる。下松(西豊井)の周慶寺は、のちに就隆が母の菩提を弔うために建立した寺である。
 一六一一年(慶長十六)九月、就隆は駿府(現静岡市)城で大御所徳川家康に目見(めみえ)した。これは、かねてからの輝元の希望によるものであった。ついで十月には、家康について江戸に行き、江戸城で将軍秀忠に目見した。このとき秀忠から「骨柄(こつがら)能(よく)生立候旨」の声をかけられた(毛利家文庫「徳山御旧記」)。就隆(このころは三次郎と称していた)は、このとき一〇歳であるから、「なかなか体格が良いのう」くらいの意であろう。これで就隆は将軍と大御所(もと将軍)に知られることになり、日向守(ひゅうがのかみ)を受領(ずりょう)した。
 この目見には、実はもう一つの大きな意味が込められていた。輝元は、はやくから秀就の帰国を切望していた。関ケ原戦後、輝元は表向き隠居をし、宗瑞(そうずい)を名乗っていたが、依然、藩政の実権を掌握していた。長子秀就は名目上は藩主であるが、実権はもたず、関ケ原戦の翌年から、証人として在江戸しつづけていた。輝元は、秀就(このとき一八歳)に暇(いとま)をもらって帰国させ、家督・領知権を譲り渡そうとしていた。そこで、帰国の暇をもらう手立てが模索された。輝元自身が駿府・江戸に下向して大御所・将軍に御礼をすることも考えられたが、輝元の体調が長途の旅にたえないので困難であった。そこで、就隆を下向させて、就隆の初目見と、右の意味での御礼を込めようとしたわけである。このころ江戸にあって、対幕府交渉をほとんど一手に引き受けていた福原広俊が、右の線で、当時の毛利氏の将軍・大御所への取次である本多正信・正純父子に折衝した。その結果、秀就の初入国の暇は出たが、その代わりに就隆には暇が出ず在江戸することになった。就隆は、兄秀就の身代りになったのである。この間の事情を物語る史料(毛利家文庫「福原広俊書状」慶長十六年(一六一一)十二月五日)をみよう。「爰元(ここもと)大坂御逗留之内」とか、「昨晩此地被成御着(おつきなされ)」とあるので、福原が秀就の供をして帰国の途次、大坂(江戸時代は大阪を大坂と書く)から、息子の久かたぶりの帰国を待ちわびている萩の輝元に宛てたものと知られる。「とてもの御事ニ日向様御同前ニ御下(おくだり)候ハヽ猶以(なおもって)にきやかニ可有御座(ござあるべく)候ニと」つまり、就隆も一諸に帰国できたら、どんなに賑やかでしょうにと、父親の気持を汲んで言ったあと、つぎのように福原は続ける。
然共(しかれども)彼(かの)御在江戸ニてこそ、若殿様御下(おくだり)候間、御家之御調(ととのえ)を被成(なされ)候条、日向様之御為も一段と目出(めでたき)度儀と申御事ニ御座候、
 就隆が江戸にとどまるからこそ、秀就は帰国できるのだから、就隆は毛利家の役に立っている。毛利家の役に立つことは、就隆自身にとってもとても良いことです、というのである。ここには、就隆の江戸下向の意味と、就隆の果たす役割とが端的に語られている。