秀就は、一六一一年(慶長十六)十二月二十六日萩城に入り、初入国を果たした。翌年十月には、国廻(くにまわり)を行った。国廻とは、藩主が初入国したとき、萩から石見国境を経て岩国へ出、山陽道を下関へ向かい、さらに北浦を廻って萩へ帰着するという、領国を一周する行事で、自己の領国と国境を見分するのが目的である。しかし秀就は父輝元から藩政の実権を受け取ったわけではなかった。その間の事情を示す史料(毛利家文庫「毛利宗瑞書状案」慶長十七年(一六一二)十二月十三日)がある。秀就の江戸再下向を前にした、輝元から幕府年寄本多正信に宛てた書状の控えである。
今度長門(秀就)御暇(いとま)被下帰国仕候、幸と存知行(ちぎょう)等可相渡之由申聞候処、長門申事ニハ、在江戸仕間之儀者(は)、何にと申候共領知(りょうち)請取候事不相成(あいならざる)之由、頻(しきりに)理(ことわり)申候条、不及兎角(とかくにおよばず)候、
今度秀就に将軍から暇が出て帰国した。これはちょうどよい機会だと思って、領地の支配権を秀就へ渡そうと言ったところ、秀就のいうには、証人として在江戸しているうちはとても支配権(藩政)を受け取るわけにはいかないという。そのためしかたなく、藩政の実権を渡すことができなかった。
右の史料から、藩政の実権の受け渡し、すなわち輝元の本当の意味の隠居、秀就の家督と藩政の掌握は実現せず、従来どおりの体制が続けられること、したがって秀就の在江戸(証人)と、就隆の身代り役(証人)は継続されるであろうことが知り得る。同じ史料に、就隆について、
日向事別而被加御憐愍(ごれんびんをくわえらる)之由、忝儀(かたじけなき)候、彼もの事者(は)、猶以ニ貴老様江進之置(まいらせおき)候之間、是非共外実(がいじつ)可然様ニ御引合可忝候、是又長門守(秀就)可得御意候、
と述べている。就隆のことは、なおさらあなた(本多正信)にすがってよろしくお願いするほかはない、というのである。こうして秀就は一二年(慶長十七)十二月萩を出発し、翌十三年一月九日に江戸に着いた。一月十二日の福原の輝元宛書状(毛利家文庫)に、
日向様御暇之儀、佐州様(本多正信)へ内儀申上候、何もちと爰元(こともと)被相静、可有御調との御事ニ候、軈(やがて)而御上(おのぼり)候儀ニて可有御座候、
とある。秀就が江戸に下向してきたからは、秀就の身代りとして江戸に滞在していた就隆に暇が出るはずなので、本多に打診してみたところ、秀就の江戸下向が遅かった(年内には江戸に着くべきだった)という取沙汰であった。したがって、少しほとぼりの冷めるのを待っているとの返事であるが、しかしやがて暇が出て帰国ということになるでしょう、という。結局、五月二十八日に暇が出た(毛利家文庫「徳山御旧記」)。
こののち、就隆は一四年(慶長十九)十一月まで在国、一六年(元和二)一月暇から一七年六月上洛・江戸下向まで在国、一八年五月暇から一九年四月江戸下向まで在国、二〇年三月暇から翌年まで在国、と国にいたが、この間秀就は、江戸もしくは上方にいた。逆に秀就が在国している間は、かならず就隆は在江戸していた(毛利家文庫「徳山御旧記」「毛利三代実録考証」ほか)。前述したとおり、まさに秀就の身代りとして在江戸していたのである。この在江戸は、「只今迄者(は)、御証人(しょうにん)一篇(いっぺん)之様ニ江戸詰仕候」(毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」の寛永十一年(一六三四)にかかわる記述)とあるように、前に述べた証人としての江戸詰めと意識されていた。これらが就隆の果たした、初期の役割の中核をなすものである。