ひうか(就隆)へ知行之儀、江戸にて直ニ申たる之由候、左候ヘハ、罷上(まかりのぼり)候ニ其さた無之候付而、ひうか気をくさし、此中(このじゅう)はらたち候、いかにも公領所少分ニ成候間、何にかと思案候とて不申聞(もうしきけず)候へ共、江戸にて申たる由候、其上何(いずれ)も遣不叶事(つかわしかなわざる)候間、先(まず)申渡候、所からくはりなとの事ハ、しつ/\と可申付候、其方にて申度存相待候へとも、気分悪候而不罷出候間、先申渡候、為心得候、当世りう之者にて、はやく辻をもきゝたかり非大かた候間、右分候、おかしさにて候、其方も其辻可申候、恐々かしく
(右馬頭宗瑞)
右
(児玉豊前守景唯)
児豊 まいる
右
(児玉豊前守景唯)
児豊 まいる
宛名の児玉豊前守景唯は、秀就・就隆の実母の兄弟、つまり伯父にあたり、秀就の在江戸以来ずっと秀就の側近(のちの役職名でいえば、江戸当役、江戸加判役を歴任)であり、輝元の信任のもっとも厚い人物で、このとき病気のため帰国中であった。さて書状の内容は、就隆へ知行を与えることについて、江戸で秀就が直接就隆に言ったそうであるが、萩に帰ってきてもその話がないので、就隆はむしゃくしゃして、最近は腹を立てている。まことに蔵入地が少なくなっており、種々考慮しているので、知行を与える話はしなかったものの、江戸ですでに知らせてしまったという。そのうえどちらにしても与えざるを得ないので、まず知行を与えることだけは就隆に申し渡した。どの村をどのくらい与えるかなどのことは、ゆっくり決めたい。その方を通じて就隆へ申し渡したいと思って、登城を待っていたが、気分が悪くて果たせないので、まず私から申し渡した。その方の心得のために知らせておく。就隆は、当世流の者で、はやく結果を聞きたがってしょうがないので、そうしたのだ。就隆の様子は、(子供っぽくて)おかしい。その方からも、この結果を就隆に申せ。以上が書状の内容だが、支藩設定に至る事情の一面をよく伝えている。
現存する打渡坪付帳の奥書は、
元和三年四月廿八日 井原四郎右衛門(花押(かおう))
粟屋豊後守殿
粟屋豊後守殿
となっており(山口県文書館蔵徳山毛利家文庫「徳山毛利家打渡帳」)、この帳簿をもとに、領地の打ち渡し(一筆一筆の耕地と帳簿を照合して引き渡す)が行われることになった。移管行為としてはまず右の日付が重要で、一六一七年(元和三)四月二十八日に下松藩が成立したとしてよいであろう。井原四郎右衛門元以は、本藩の当職。宛名の粟屋豊後守(のち肥前守)元相は、就隆誕生の翌年の一六〇三年(慶長八)、「御守御老(としより)として」輝元が就隆につけた人物である(山口県文書館蔵「旧記抜書」、『徳山市史史料』に収載)。分知の時点において、就隆は一六歳であった。