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分知当時の村々

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 前述の打渡坪付帳は、基本的には慶長検地帳(慶長十二~十五年の三井・蔵田検地のもの)を引き写したものと考えられるが、若干の変更も認められ、この間の現状の変化に一定度対応したものであろう(毛利家文庫「三井但馬蔵田与三兵衛検見帳」と徳山毛利家文庫「徳山毛利家打渡帳」とで村高が若干異なる村がある)。いくつかの史料から、分知当時の下松藩に属した村々とその石高を掲げて、復元してみよう。○印を付けた村は、現下松市域に関係する村である。まず、分知当初は下松藩に属したが、一六二一年(元和七)から翌年にかけて行われた替地によって本藩に返還された村々は、つぎのとおりである。
  ○切山村  九三九石七斗二升一合
  ○末武村  四八九五石七斗七升弐合 (但し、笠戸を含む)
  ○下谷村   四二二石六斗一升二合
  ○中須村  二五七七石三斗五升一合
   串浜    三一七石八斗九升
   久米村  二三五七石八斗六升一合
   須々万村 三〇五八石八斗一升四合
   莇地村   二七二石一斗八升
   須万村  一〇一六石七斗九升九合 (但し、みたけ・兼田のみ)

 以上で一万五八五九石となる(『毛利家文書』所載、元和七年十二月二日「毛利就隆上地目録」)。つぎに分知当初も、そして替地後もずっと下松藩領でありつづけた村々は、
  ○生野屋村 一一二四石六斗五升五合
  ○大藤谷村  二四一石三斗八升六合
  ○温見村   三四三石七斗六升四合
  ○瀬戸村   五二〇石五斗三升三合
  ○山田村  二〇二二石五斗五升五合
  ○河内村  二二九二石八斗弐升七合
  ○豊井村  二一八七石六斗四升九合
   川曲村   一三九石三斗五升六合
   野上村  三〇二七石九斗四合
   遠石村   一二九石六斗六合
   栗屋村   一四三石三斗八升五合
   相島村   一五一石四斗二升二合
   譲羽村   二一八石九斗五升四合
   須万村  三五八七石四斗七升七合
   戸田村     三九一石五升四合
 熊毛郡
   島田村    九二石三斗一升二合

となる。
 以上で一万六六一四石八斗三升九合となり(徳山毛利文庫「古記」の寛文十年(一六七〇)十月二十二日の史料、『徳山市史史料』所載)、前述の一万五八五九石とあわせて、三万二四七三石八斗三升九合になる。分知当初の数値が全部知られないので--たとえば、須万村の慶長検地高三五一二石二斗九升四合から、上地分のみたけ・兼田の高一〇一六石七斗九升九合を引くと二四九五石四斗九升五合となるが、三五八七石四斗七升七合の数値があがっており、あるいは紙産地ゆえの石高の変更があったのかもしれない--、いま一つ正確でないが、通称の三万石を少し上まわる総石高であった。これらの村々は、戸田村の一部、島田村の一部を含むので飛地が若干あるものの、その他は都濃郡の東半分のまとまった地域を構成している。現在の下松市域は、全域がそのままこの中に入る。この地域構成と、本藩の船倉がはじめ下松にあったことにみられる海上交通上の利便性からみて、下松がこの支藩領の中心に擬せられたのも当然であろう。