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分知当時の内実

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 支藩設置に伴い、家臣団はどのように形成されたのであろうか。まず家臣団の頂点をなす家老をみてみよう。前述の打渡坪付帳の宛名は、粟屋豊後守(のち肥前守)元相であり、分知当時の家臣のトップであった。彼は就隆誕生の翌年の一六〇三年(慶長八)、「御守御老(としより)として」輝元が就隆につけた人物であり、翌年に「御抱守御用人」として元相につけられた奈古屋対馬・福間淡路・榎本五郎左衛門とともに、下松藩の家老となった(山口県文書館蔵「旧記抜書」、『徳山市史史料』に収載)。因みに、同史料に「同年(元和三年)本家より御附之御家老二人桂美作・神村豊後」とあり、これによって、従来支藩設定の年に、筆頭家老になる桂美作守元綱・神村豊後守元種の二人が本藩からの付家老となったと理解してきた。しかしこれは誤伝である。この二人は一六二一年(元和七)に輝元が秀就に相談のうえで付家老としたもので(『毛利家文書』)、桂家の家譜にも、「元和七年日向守就隆公依(より)御所望、元綱と神村豊後元種両人御附家老相勤之」とある(『近世防長諸家系図綜覧』)。つまり、筆頭家老になるこの二人は、おくれて派遣され、一斉に家臣団が構成されたのではなかった。なお、粟屋元相が、はやくから「御守御老(としより)」として付けられていたという記事の方は、就隆が在江戸中の一六一二年(慶長十七)閏十月九日付の元相宛輝元書状に、「日向行規(ぎょうぎ)之事不及申(もうすにおよばず)、各(おのおの)万(よろず)たしなみ専用候」とあることからも裏付けられる(山口大学人文学部国史研究室蔵「粟屋家文書」)。福間も、そのころの書状に登場する。
 分知の翌年の一六一八年(元和四)閏三月二十一日付の秀就・輝元連署による粟屋元相宛書状によると、「日向(就隆)かし銀今度江戸供之者へかし付之通聞届候、調之儀当秋元利共ニ堅固ニ可相澄(済)之段申聞候」とあり(「粟屋家文書」)、就隆の供をして江戸に下向した家臣への就隆の貸銀とその返済について、本藩から梃子入れを行っている。
 同年五月一日に暇が出て、就隆は帰国する。そして初めて所領を巡視した。しかし、後述のように元和年間には、就隆は萩に住むつもりで、知行地に館を構える気はなく、事実下松館の竣工は、一六三一年(寛永八)までくだる。さらに一六二一年(元和七)には替地をして、支藩領さえ変動している。
 以上、この項でみてきた通り、分知当初の下松藩は、まだ発足したばかりで、内実は知行組織として未熟なものであった。