此条ニ申越候辻、尤可然候条、弥秀元へも可申談候、福孫兵ニも此段申聞せ候事
一日向縁辺之事、
一日向縁辺之事、
とあって、輝元も乗気で、話を進めようと言っている。松菊は、当年七歳であり、この年に婚約したらしく、実際の婚儀は一六二一年の就隆の在国中に行われた。なぜ一七年に結婚話が持ち上がったかというと、前年の岩国藩主吉川広正と輝元長女(「御屋敷様」と呼ばれていた)の結婚に関係がある。輝元の吉川広家宛覚書(『毛利家文書』元和二年七月十七日)に「縁辺申談候儀者(は)、家之ため并(ならびに)御方御家不相易(あいかわらず)可申談儀定之事」とあり、また娘宛の輝元教訓書(『毛利家文書』元和二年(一六一六)七月)にも「とうけ(当家)にてハひてもと(秀元)きつかわ(吉川)かんにやう(肝要)に候ニつき、かくのことく申だんじ候」とある。毛利の両川(吉川元春と小早川隆景を指し、この二人は本家の輝元を支え守り立てた)の後継者と目されていた毛利秀元、吉川広家と毛利本家の結びつきを強化し、この両家が毛利本家を守り立ててくれることを目論んだのである。そして吉川に娘を嫁がせた均衡上、息子の嫁に秀元の女を迎えることを考えたわけである。このあたりに輝元本来の意図の核心が窺え、興味深い。