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就隆の婚約

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 分知の年である一六一七年(元和三)八月二十六日の秀就自筆書状によると、「日向(就隆)縁辺之儀ニ付て、秀元へ内談申候趣」とあり、就隆の結婚について、長府藩主毛利秀元の長女松菊と申し合わせてはどうかと輝元に相談している(『毛利家文書』)。同年十月二十二日の輝元の判断書(『福原家文書』上巻)にも、
  此条ニ申越候辻、尤可然候条、弥秀元へも可申談候、福孫兵ニも此段申聞せ候事
   一日向縁辺之事、

とあって、輝元も乗気で、話を進めようと言っている。松菊は、当年七歳であり、この年に婚約したらしく、実際の婚儀は一六二一年の就隆の在国中に行われた。なぜ一七年に結婚話が持ち上がったかというと、前年の岩国藩主吉川広正と輝元長女(「御屋敷様」と呼ばれていた)の結婚に関係がある。輝元の吉川広家宛覚書(『毛利家文書』元和二年七月十七日)に「縁辺申談候儀者(は)、家之ため并(ならびに)御方御家不相易(あいかわらず)可申談儀定之事」とあり、また娘宛の輝元教訓書(『毛利家文書』元和二年(一六一六)七月)にも「とうけ(当家)にてハひてもと(秀元)きつかわ(吉川)かんにやう(肝要)に候ニつき、かくのことく申だんじ候」とある。毛利の両川(吉川元春と小早川隆景を指し、この二人は本家の輝元を支え守り立てた)の後継者と目されていた毛利秀元、吉川広家と毛利本家の結びつきを強化し、この両家が毛利本家を守り立ててくれることを目論んだのである。そして吉川に娘を嫁がせた均衡上、息子の嫁に秀元の女を迎えることを考えたわけである。このあたりに輝元本来の意図の核心が窺え、興味深い。