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替地一件

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 就隆在国の一六二一年(元和七)には、筆頭家老となる桂元綱・神村元種が本藩から付けられたこと、就隆の結婚、替地が決まったことなど、藩政展開へのいくつかの条件が整ってくる。神村元種は、一五年から一八年に本藩当職井原元以を補佐し、藩政の運営に長じていたとみられるので、彼を付家老としたのは、本藩の強力な梃子入れというべきである。
 さて替地の件であるが、就隆の希望によって、二一年十二月二日に替地のことが決まった。本藩に返還したのは、前述した串浜・久米村・末武村・下谷村・須々万村・中須村・切山村・莇地村・須万村のうち、みたけと兼田の合計一万五八五九石である。現下松市域でいえば、周辺部に当たる。代わりに同高の村々を受け取ることになるが、それはつぎのごとくである(『毛利家文書』の元和七年(一六二一)十二月二日付「毛利宗瑞(輝元)同秀就連署替地目録案」)。
    替地所付
  五千七百三拾七石  都濃郡 富田
  弐千三百弐拾四石  同   矢地
  千四百三拾石    佐波郡 富海
  七百三石      都濃郡 福川
  六百五拾七石余   同   大向
  千六百四拾九石余  同   四熊
  七百四拾三石    同   大通
  千弐百石      阿武郡 奈古
  千四百拾三石    同   大井内
    但、美濃守(宍戸)二所給除之
   合壱万五千八百五拾九石定
    元和七年十二月二日  秀就
               宗瑞
           日向守殿

 これらの村々の配置の特徴は、まとまりをやや欠くようになったものの支藩領が西へ延びたこと、それに阿武郡の奈古村と大井村を受け取ることによって北浦に領地が与えられたことである。右の史料の大井の注記に「美濃守(宍戸)二所給除之」とあって、美濃守を宍戸と解しているが、これは『毛利家文書』編集者の誤解で、美濃守とは、吉川広正のことである。一八年(元和四)十月十二日付、吉見彦次郎(実は吉川広家の子就頼で、吉見広頼の養子となった)宛吉川美濃守広正書状(毛利家文庫「譜録大野毛利家」)によれば、
御方之儀、就(つき)吉見舸〓(広頼)御家相続、彼拝領之地長州之内大井村相嶋両所千百四拾石之分与奪旨候、然者(しからば)此方当時在萩為用所、右之領地互以相談、令易替之候、
と述べ、吉川広正が弟就頼の吉見家相続に当たって、吉見家知行地の大井村と相島の一一四〇石を「在萩為用所」(あるいは「在萩台所領」とも表現している)もらいうけたといい、かわりに就頼に玖珂郡通津村で知行地を与えた。また「美濃守二所給」とあるのは、後述する広正室(「御屋敷様」)の化粧料の一部もここに存在するためと考えられる。右の史料で注目すべきは、「在萩為用所」、「在萩台所領」とあることである。輝元が娘を手元に置きたかったためか、広正室は在萩し、したがって広正は萩に通ってくることになり、その萩滞在費に大井をあてるということが背景にある。因みに、寛永検地後の知行替えによって、大井村はつぎのような構成になった(毛利家文庫「寛永三年(一六二六)給領御配郡別石高名付附立」)。
  一同(高)三千五百四石六斗四升四合
    内
    千九百六拾九石壱斗四升五合 日向守様
    千弐百三拾石五斗五升四合  御蔵入
    三百四石九斗四升五合    御屋敷様

 すなわち下松藩領、本藩領、吉川広正室知行地の構成となったのである。
 右の吉川氏の「在萩台所領」としての大井村の役割を援用すると、就隆が領地構成上、はるかに隔たった飛地である奈古村と大井村に替地を望んだのは、「在萩台所領」を求めたからであると想定できる。替地の時点では、就隆は在国中萩に居住するつもりでいたと考えるのである。下松館の建設が、三一年(寛永八)までくだるのは、そのことと関係がある。しかし結果からみると、こののち就隆はほとんど在江戸して帰国せず、久しぶりに帰国する三八年には、下松館がすでに完成していた。したがって奈古村・大井村は、「在萩台所領」としては機能することもなく、むしろ飛地として重荷になったであろう。かかる遠隔地の年貢米をどう処理していたかについては、後述する(第四章、2)。