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なぜ替地をしたのか

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 一六二一年(元和七)十二月二日に替地が決定され、「毛利就隆上地目録」と「毛利宗瑞(輝元)・同秀就連署替地目録」が作られた(『毛利家文書』)。その翌日、輝元・秀就から福原広俊に宛てて、次のような書状が出された(『福原家文書』上巻)。
今度日向守(就隆)知行替之事頻(しきり)ニ申候、江戸参上抧候て堅申付而(て)不兎角(とかくあたわず)、替可遣之由申聞候、然者(しからば)御方知行之内富海之事をも申候、千万相理度(あいことわりたき)儀ニ候へ共、何かと申候へは公儀はつれ申候故(ゆえ)任申辻(もうすつじにまかせ)候、委細此仁任口上候条不能詳(つまびらかあたわず)候、かしく
(元和七)
  十二月三日  秀就(花押)
         宗瑞(黒印)
   (福原広俊)
   福  越後

 こんど就隆が知行替のことをしきりにとりあげ、替えないと江戸に行かないというので、やむをえず替えると言ってしまった。ところであなたの知行地の富海村も分けよという。本当はだめだとぜひ断りたいところであるが、あれこれ言っていると、就隆の江戸下向が遅れて、対幕府関係がまずくなるので、就隆の言い分を入れてしまった。くわしくはこの手紙を持参する者が口頭で説明するので、手紙にはくわしく書かない。就隆が、かなり強引に村を指定して替地をせまったことが窺える。福原広俊は、関ケ原戦での役割や、戦後の対徳川(幕府)交渉をほとんど一手に引き受けた、家中きっての功臣であり、重臣であった。こともあろうに、この重臣の知行地を息子がいとも簡単に譲れという。しかも、江戸下向を遅らせるという、父親の弱点をつく戦術もとっている。輝元の困惑ぶりが察せられ、福原への書状は、まさに詫びの一札といってよい。
 では、なぜ就隆は替地を望んだのであろうか。領地分布については、若干まえにふれたので、ここでは就隆が返還した村々、代わりに受け取った村々をいかなる基準で選んだかを探ってみたい。表1は、替地で受け取った村々の七つ三分高(慶長検地高)と五つ成高(寛永検地高)をあげ、字義通り年貢率が七三パーセントであった場合の物成額a、年貢率が五〇パーセントであった場合の物成額b、そしてbがaを一〇〇にした場合に示す指数(b/a×100)をcとしたものである。一方、返還した村々について、同趣旨のものを作成したのが表2である。表2は、返還した部分のみの数値がえられないので、正確な表1との比較にはならないが、おおよその傾向を知るには充分である。
表1 替地で受け取った村々の年貢指数
村 名7つ3分高
(慶長検地高)
同73%の年貢額a5つ成高
(寛永検地高)
同50%の年貢額bb/a×100
石  石  石   石  
富海村1,429.04021,043.1992,102.425   1,051.213100.8
福川村703.039513.2181,010.6745   505.33798.5
矢地村2,324.4151,696.8233,184.420   1,592.21093.8
四熊村1,648.8741,203.6782,038.341   1,019.17184.7
大道理742.438541.9801,045.759   522.88096.5
大向村657.022479.626920.115   460.05895.9
富田上下5,339.4173,897.7747,482.020   3,741.01096.0
奈古村1,200.294876.2151,707.822〓853.91197.5
大井村1,413.0041,031.4931,969.145   984.57395.5
15,457.543211,284.00621,460.7215 10,730.36395.1
出典徳山毛利文庫蔵「古記」、『徳山市史史料』収載。〓の部分は、史料では707.822となっているが、千が落ちているので訂正した。

表2 替地で返却した村々の年貢指数
村名慶長検地高同73%の年貢額a寛永検地高同50%の年貢額bb/a×100
久米・串浜・石  石  石  石  
栗屋・譲羽3,137.7512,290.5583,289.5381,644.76971.8
末武・生野屋5,949.7354,350.6076,672.5073,336.25476.7
須々万・下谷3,485.4962,544.4123,485.0501,742.52568.5
中須2,577.3151,881.4402,681.6911,340.84671.3
切山939.721685.9961,175.322587.66185.7
莇地・河廻411.538300.423487.279243.64081.1
須万3,512.2942,563.9754,332.5772,166.28984.5
14,617.41111,061.98475.7
出典 山口県文書館蔵「県庁旧藩記録」の「三井但馬蔵田与三兵衛検見帳」と同「寛永二年坪附帳」。なお上表のうち、栗屋・譲羽・河廻と須万のうちみたけ・兼田以外の分は本当は該当しない(下松藩が持ちつづけている)が、数値を分離できないので込みの数値をあげてある。

 ここで問題にしている一六〇七~一〇年(慶長十二~十五)の検地は、総石高五三万九二八六石余を検出し、それ以前の総石高二九万八四八〇石余の検地(慶長五年検地という)の租率七つ三分はそのまま維持しようとしたといわれる。しかしこの検地は過酷で、かつ後述するごとく杜撰であったので、農民の逃亡や村々の疲弊を招いた。そこで一六二五年(寛永二)に、過去四年間(元和七・八・九年と寛永元年)の年貢実績を平均し、それが租率五つ成に当たるように石高を決定した。寛永検地による総石高は、六五万八二九九石余であった。慶長検地の失敗を踏まえ、実情に近い方(年貢実績の方を重視する)に軌道修正したのである。したがって表のaの数値は、領主側の希望額ではあっても、実際は一方的に下降し、bの数値に近づいていったと考えられる。替地は、二一年(元和七)十二月の決定であるから、寛永検地以前であるが、寛永検地にみられる年貢額の傾向は、すでにはっきりと出ていたとみてよい。とするならば、表1の替地として受け取った村々のb/a×100の総平均九五・一と表2のそれの七五・七という数値の対比の語るところは明瞭である。年貢実績のかなり落ちた村々を返還し、逆にそれがほとんど落ちていない村々を請求し、受け取ったのである。その結果、下松藩全体としては、九一・〇の数値となったが、それだけの減ですんだのは、強引な替地のおかげといえる。
 所領の一円性からすれば、たとえば富海村よりも戸田村を取る方が有利とみられ、戸田村の一部はすでに下松藩領であったから、戸田村を取ればよいようであるが、実は計算してみると富海一〇〇・八に対し戸田八二・三となる。何を基準として村を指定したか明瞭である。福原広俊をはじめ、この替地によって知行地を取り上げられた本藩の家臣たちは、他の知行地をもらったであろうが、年貢実績の良好な知行地を失ったことで、就隆の私心を恨んだことと思われる。就隆の方には、在江戸で出費が嵩むという言い分があったであろう。こうして、替地決定の翌年、二二年(元和八)二月十九日に、打ち渡しが行われた(前掲「徳山毛利家打渡帳」「古記」)。