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内証家督と輝元の死

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 一六二一年(元和七)十二月、替地の一件が決まると、就隆は江戸に下向した。その後、結局、一六三八年(寛永十五)に帰国するまで一八年間在江戸し、長く国に帰って来なかった。二二年八月十七日の秀就宛輝元判断書(毛利家文庫)に、
  聞届候、日向所より申越次第可差下(さしくだすべき)事
  一日向守内方被罷下(まかりくだられ)候事、

とあって、就隆室(前年結婚した、秀元女松菊)の在江戸も決まった。
 輝元は、はやくから隠居の希望をもち、二〇年(元和六)には、隠居分として三万石、その家臣の知行として二万石を蔵入地から割くことなどが決まりかけていた(「毛利宗瑞覚書」『毛利家文書』)が、結局延び延びとなった。二二年その話が再燃したが、藩財政が悪化(多額の借銀ができていた)し、建直しの目処(めど)をたてることが、隠居の条件となっていた。そこで長府藩主毛利秀元に藩政を委任し、財政建直しを図ろうということになり、翌年にかけて説得にあたった。秀就の秀元宛起請文案(『毛利家文書』元和八年)によれば、「今度所帯方礑(はたと)不相続仕合ニ付(つき)而」、つまり藩財政がまったく行き詰ってしまったので、「両国大辻并所帯方万(よろず)究之儀、貴様頼存之通、此(この)中重畳(じゅうちょうじょう)日向守(就隆)宍主殿(宍道元兼)を以申入候」、藩政全般と財政再建のことをあなたに頼みたいと、この間何度も就隆・宍道を通じて申し入れた、とある。この依頼に応じて就隆も奔走したことになる。二三年(元和九)十月、秀元がやっと最終的に引き受け、益田元祥・清水景治が当職としてそれを補佐するようになった。この体制を「秀元当国(とうごく)」と呼び、一六三一年(寛永八)まで続くこととなる。
 秀元への藩政委任の見通しのつきかけた二三年(元和九)九月に、秀就の萩入城、内証(ないしょう)家督の儀が行われた。輝元の名実ともの隠居、秀就の家督、知行権の掌握を意味し、内証(ないしょう)というのは、名目上(対幕府の形式上)はすでに秀就が藩主であったので、このさい改めて表向きにしないというのである。そして秀就は家督後すぐに秀元に藩政を委任することになる。
 翌二四年(寛永元)、輝元は秀元と仲の悪くなっていた就隆を諫めた。輝元宛就隆書状(『毛利家文書』)に、「秀元私如在(じょさい)ニ有之儀ニ被聞召(きこしめしつけられ)」、「中絶之様ニ罷成候段、迷惑奉存候」、つまり二人の間が疎略、不仲になっているのを輝元に知られ、異見をうけたとあり、仲直りすることになった。輝元は、就隆と秀元が協力しあって本家を守り立ててくれることをもっとも願っており、そのため就隆と秀元女の結婚という手をうったのであるから、その願いとは全然逆の事態をもっとも憂慮したわけである。輝元はこの翌二五年四月二十七日、萩四本松邸で卒した。はやく隠居し、「風かけ(陰)の山口へ移」り、「草花なとうへ、気をものへ慰」めたいという晩年の希望(『毛利家文書』秀就宛輝元書状)は、ついに叶えられなかった。