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寛永の検地

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 二五・二六年(寛永二・三)、秀元当国下での最大の事業といえる寛永検地とそれにもとづく知行替えが行われた。支藩領を含む全藩検地はこれが最後となったが、知行替えは支藩領には及ばなかった。下松藩領の村々の打渡坪付帳の日付は、寛永三年十二月五日であり、例えば豊井村のそれの奥書は、つぎのとおりである(徳山毛利家文庫「徳山毛利家打渡帳」)。
右御帳去年御究(おきわめ)之時、四か年之物成各御百姓中(姓脱)銘々指出仕上辻を以折合、五つ成ニして新帳調上申候、為庄屋組頭中石辻之寄退(よせのけ)毛頭不仕候、地下(じげ)小百中より以来申分(もうしぶん)御座有間敷(ござあるまじく)候、為堅如件(くだんのごとし)、
 寛永三年十二月五日  豊井村庄屋 与三左衛門
            下松目代  五郎右衛門
            同所    四兵衛
    次目(つぎめ)之印判(いんばん)数三百九拾八
右坪付念を入申付、少茂(も)無紛候条、奥書仕所如件、
                   福間淡路
   熊野藤兵衛殿
右庄屋坪附帳差出并御代官任奥書判形可仕之通リ候条、如此ニ候、以上
  同上               熊野藤兵衛
   福間淡路守殿

 つまり、去年の検地のとき、それ以前の四カ年の年貢額を百姓に申告させ、その平均額が五割の年貢率になるように石高を決めて新検地帳を作成して提出した。村役人の庄屋・組頭が勝手に石高の操作をするなどということは決してしていない。一般の百姓からも異存は出ないはず、こういう内容である。熊野藤兵衛は、このとき検地奉行を勤めた人物で、この検地をしたがって熊野検地・熊野抨(なら)しと通称する。福間淡路守は、下松藩の家老で、おそらくこの時期当職を勤めていたものと思われる。検地の結果、下松藩領は、四万一〇石の総石高となった。