寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余、切岸東西二壇へ竹を植、御門三ツ有之、御厩惣構之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事、
とある。外構えの石壁が少し高くなったので(あるいは海上から見渡せたのかもしれない)、幕府に遠慮して、石壁の上へ土をかけて竹を植えさせたというのである。一国一城令下であるから、十分ありえたことである。
それでは、下松陣屋の場所はどこであろうか。徳山藩史(『徳山市史史料』)は、
下松御城地并御普請之事
一寛永八年辛未今年下松河内村御陣屋落成分、内九拾間四方御門三 西南一ツ南一ツ東南一ツ
御長屋御厩(うまや)等ハ御門外也 普請奉行佐久間清左衛門隆重勤之
一寛永八年辛未今年下松河内村御陣屋落成分、内九拾間四方御門三 西南一ツ南一ツ東南一ツ
御長屋御厩(うまや)等ハ御門外也 普請奉行佐久間清左衛門隆重勤之
と、河内村に陣屋があったとの説をたてている。一六四四年(正保元)に幕府が作成を命じた正保国絵図の写(毛利家文庫、一六五二年<慶安五>完成)によって、下松付近の概念図を描くと図3のごとくである。「毛利日向守(就隆)居所」としてある場所は、「河内川」(現切戸川と考えられる)と「切山川」(現生野屋川-現平田川、あるいは玉鶴川)に挾まれたかなり広い場所を指し示している。あるいは陣屋だけでなく、家臣団の屋敷を含めての一画を図示しているのかもしれない。河川の下流域は後世とは異なっている。
図3 正保国絵図による下松付近概念
一方、時代は降るが、『防長地下上申』の西豊井村の項に
一古御屋敷山 法蓮寺ニ有り
但先年徳山御先祖様此所ニ被レ遊二御座一(ござあそばされ)候故、古御屋敷山と地下人申伝、尤(もっとも)御屋敷およそ百年余ニ相成候由地下人申伝候得共、此所ニ何之証拠も無之、唯聞伝計ニ候事、
但先年徳山御先祖様此所ニ被レ遊二御座一(ござあそばされ)候故、古御屋敷山と地下人申伝、尤(もっとも)御屋敷およそ百年余ニ相成候由地下人申伝候得共、此所ニ何之証拠も無之、唯聞伝計ニ候事、
とあって、村人の言い伝えでは西豊井村の法蓮寺にあったという。この「地下上申」とほぼ同時に作成された「地下上申絵図」(山口県文書館蔵)の豊井村をみると、法蓮寺のところに御屋敷山を背にして、「古御屋敷台」とあり、そこから右手に下がったところに「むまやのたん」(厩の壇と思われる)と表示してある。前掲の「旧記抜書」に「御厩惣構之外ニ有之」とあるのと符合する。下松陣屋の所在地は、この点から「徳山藩史」の河内村所在説ではなく、西豊井村法蓮寺所在説をとるのが妥当である。
地下上申絵図、豊井村古御屋敷台付近(山口県文書館蔵)
慶安五>