まず下松浦について、一六七七年(延宝五)十二月に、徳山藩の船倉が下松町の東の方にあることが確認できる「徳山毛利家文庫「記録所日記」同年十二月十九日条)。
一下松町東之方御船蔵之先、浜辺二町余片かわ、町人望申ニ付、是又(町割を)申付候由、御船蔵ヘハ、為二火用心一四十軒(間)程空地申付候由也、
このとき下松町の新しい町立は、徳山新町中ほどから西方一町余左右と同御客屋から浜崎への道筋三町余左右の町立とならんで申請され、許可されている。下松町東方にある徳山藩の船倉の先の浜辺二町(約二一八メートル)余りの長さに片側町(ふつう道の両側に町は出来るが、この場合は片側のみ)を形成する。船倉との間には、火の用心のため、四〇間(七二メートル余)の空地をつくる、という許可条件である。この記事から、この時期徳山藩の船倉は、下松町東に所在し、一六八三年(天和三)に遠石町東端浦に移建されるまでここにあったと考えることができる(「徳山藩史」)。ところで、一七四一年(寛保元)の徳山藩「御領内町方目安」(『徳山市立図書館叢書第十九集』)によると、徳山藩領の下松町は、西から中川原町四七間(これは一七一二年<正徳二>に町方支配に入った)、中市二町三三間、東市一町三九間、新町二町五九間で構成されている。とすると、一六七七年(延宝五)の町立は、のちの新町である可能性が高い。船倉も一六八三年(天和三)に立ち退くから、ここも新町の町並になったと考える。そのことから、下松藩・徳山藩の船倉は、一六八三年まで下松町の、のちに新町になった場所にあったと推定する。
一方、笠戸本浦の方も、正保国絵図に「笠戸浦、入口広二町半深十二尋、船懸りよし、西北風悪し」と書かれた良港である。近世中期の地下上申絵図にも、「御番所」の近くに「御船倉」が描かれている。幕末の『防長風土注進案』の末武下村の項にも、
一御船倉之事 笠戸嶋ニ有之、
御船倉壱軒但壱間半梁七間半惣茅葺開キ戸弐枚竹打付戸之事、
御船倉壱軒但壱間半梁七間半惣茅葺開キ戸弐枚竹打付戸之事、
とある。ただし、この本藩の船倉は規模が小さく、笠戸番所付属の船倉とみられる。
地下上申絵図、笠戸島本浦付近(山口県文書館蔵)
以上、限られた史料によって船倉の位置を検討してきたが、関ケ原戦後慶長十年代まで(一六一一年、慶長十六年の秀就の初入国のさい、三田尻に上陸しており、このときまでには船倉は三田尻に移転していたであろう)下松に存在した本藩の船倉は、のちの下松町新町になる場所にあったと推定する。下松藩は、もとあった本藩の船倉ないしその跡を、自らの船倉として引き継いだと考える方が自然だからである。
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