江戸時代には、大名は通常江戸屋敷を将軍から拝領した。たとえば萩本藩は、上屋敷(桜田藩邸)・中屋敷・下屋敷(青山藩邸)の三つを拝領し、買屋敷もいくつかもっていた。一六三三年(寛永十)三月、就隆は江戸屋敷拝領を望み、本藩に取り次いでくれるように頼んだ。その記事を紹介する(毛利家文庫「公儀所日乗」)。
就隆様が屋敷を拝領したいとおっしゃるので、殿様(秀就)の使いとして旗本の倉橋勝兵衛殿のところへ行った。旗本の安藤伝十郎殿とよく相談して、老中へ申し入れるようにとのことである。就隆様は今まで一三年在江戸であり、奥様は一一年在江戸である。これらの事情も、くわしく倉橋殿に話しておいた。今明いている屋敷の中から、就隆様に似合いの屋敷を拝領できるようにと、殿様からお願いする手はずである。このことを老中の土井利勝殿(萩藩の取次である)へ申し入れてほしいとのことである。
この記事から、就隆の希望によって、江戸留守居の福間彦右衛門が、萩藩出入の旗本である倉橋のところへ行き、これも出入の旗本の安藤と相談の上、老中とりわけ萩藩の取次老中の土井へ申し入れることになったのである。就隆はこの間一三年在江戸していること(確かにこの間帰国せず在江戸していた)、室も一一年在江戸していること、それを理由に屋敷を拝領したいということであろう。この記事のあと、結果がどうなったかの記事はない。その一方、二年後の三五年三月十日に小石川屋敷拝領の所伝がある(「徳山藩史」)。あるいは、下松藩は内証分知であって、このときまだ正式に将軍に認知されていないので、江戸屋敷拝領のことは延引し、三四年認知のあと拝領となったのかもしれない。