三四年(寛永十一)二月、就隆は下松藩が正式に認知されることを望んだ。その記事はつぎのようである(毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」)。
最前者(は)御證人一篇(いっぺん)ニ被御詰候、殿様(秀就)御暇出御在国之時者(は)、日向守殿(就隆)江戸御詰、殿様御在江戸之年者、日向守殿御暇出、毎度御下候、然処(しかるところ)ニ寛永十一年二月ニ日向守殿より殿様江(え)御理被二仰上一候者、只今迄者御證人一篇之様ニ江戸詰仕候、同敷(おなじく)者(は)上様(将軍家光)江御奉公ニ被二差出一候而(て)、致二在江戸一候様仕度存候、此段御訴訟被二仰上一候而被レ下候様ニ与(と)御理(おことわり)候
この記事の概要は、これまで就隆は証人として在江戸していた。秀就と交替で在江戸していたのである。ところが寛永十一年二月に、就隆から秀就に「これまではひたすら証人として江戸詰めをしてきたが、同じことなら将軍へ奉公に出していただき、在江戸したいと思う。このことを将軍にお願いして下さい」と申し入れた。
これを受けて本藩では、出入りの旗本安倍四郎五郎と譜代大名の最重鎮井伊直孝を頼みに根回しを行い、老中の三人、その中でとりわけ萩藩の取次である土井利勝に話を持ち込んだ。ここで一つ問題が持ち上がった。知行高の書付を提出するのに、就隆が四万五〇〇〇石としてほしいと希望した。将来どこかで将軍から知行をもらうことがある場合、もとの石高が高い方が有利なので、寛永検地高四万一〇石を超えて名称だけでも高い方を望んだのである。一方秀就の方は、萩藩の公式の石高(朱印高という)である三六万九四一〇石のうちから分知しているのだから(その中での就隆の知行高は後年三万石あるいは二万五五〇石とされる)、それはできないと突っぱねた。しかし、就隆が譲らないので、四万五〇〇〇石と四万一〇石の差額を本藩に請求しないという条件で、四万五〇〇〇石を幕府に報告することになった。下松藩の石高には、輝元が分知した慶長検地の高である三万石、寛永検地の高である四万一〇石、このとき幕府に報告した高である四万五〇〇〇石、萩藩朱印高の中での割符高三万石あるいは二万五五〇石、の四種類があって、幕府へのその後の説明には、これらを使い分けている。ともあれ、秀就の領知高の中から知行高を内配りすること(将軍から新たに知行をもらうのではない)、将軍に奉公に出ること、将軍と主従関係を結び諸侯(大名)に列すること、すなわち下松藩が正式に認知されることが決まった。一六三四年(寛永十一)三月十八日、土井利勝から将軍の耳に入れたところ裁可された旨を知らせてきた。翌日、秀就は就隆を伴って、三老中と井伊宅を訪れ、礼を言った。
なお、この翌年十月、就隆に城主格を認めてほしい旨を、やはり秀就を通じて幕府に願い出た。しかしこれは、分知したばかりであるから見合わせるようにと、老中から返答があり、沙汰やみとなった。この件は、幕末の一八三六年(天保七)になって、やっと実現することになる(毛利家文庫蔵「徳山御内願一件」、『徳山市史史料』収載)。