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別朱印願い一件

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 一六三四年(寛永十一)将軍家光は、諸大名を引き連れ、三〇万の大軍勢で上洛を敢行した。将軍権力の確立を象徴する、大デモンストレーションであった。この上洛中、諸大名に一斉に領知朱印状(一〇万石以上の場合、将軍の花押(かおう)-一種のサイン-がすえられるので、領知判物(はんもつ)ともいう)が発給された。それぞれの所領の支配を、将軍が公式に認めた証しとなるもので、これを所持することが、大名たるの所以となる重要なものであった。二代将軍秀忠の発給に続いて、これが二度目であり、以降将軍の代替わりごとに行われた。
 この領知朱印状発給のさいに、秀元(長府藩)と就隆(下松藩)が、秀就(萩本藩)とは別個に将軍から朱印状を発給してもらおうと運動した。別朱印願い一件である。その経過を追うと、三四年閏七月十一日、老中の酒井忠勝・土井利勝から呼び出しがあって、本藩の公儀人(一般に江戸留守居といい、対幕府・対他藩の交渉・付き合いにあたる役)の福間彦右衛門就辰が出頭すると、両老中から朱印改めがあるので、先代秀忠の朱印状の写しを朱印改め奉行に提出せよとのことであった。そこでさっそくその写しを、朱印改め奉行三人のもとへ持参したところ、そのうちの一人永井尚政が、秀元と就隆の知行はこの朱印の中に入っているのか、それともこの他なのか、と尋ねた。福間は、その二人の知行はこの朱印のうちで、周防・長門両国はまるごと秀就が拝領する旨の家康の書物と秀忠の朱印状をもらっており、二人の知行はその内から秀就が配当している、と答えた。永井はそれでは今度朱印が本・支藩別々になるのだろうと安藤重政(朱印改め奉行)に言い、福間に対して、同じことなら朱印状の本物を拝見したいと言った。福間は、それならお目にかけようとそこを辞した。福間は、朱印状の本書を永井が見たいというのは、朱印状に秀元の知行について何かふれているかもしれないと思ってのことかと疑問に思い、江戸加判役の児玉元恒・井原元以、さらに益田元祥と相談し、秀就の耳に入れた。その結果、これは容易ならざる事態であるから、油断なく処置しようと一決した。のちに、朱印状の本書を持参し、永井尚政・内藤忠重(朱印改め奉行)に見せた。
 閏七月十一日晩、秀就自ら益田・井原を伴って老中の土井利勝・酒井忠勝を訪れ、防長二カ国を一括本藩が拝領している由諸を説き、今度も先代と変わらない内容の朱印をもらいたい旨を申し入れた。さらに翌日早天、秀就は益田・井原・阿曽沼就春(当役)を伴って再度両老中を訪れ、家康の判物(関ケ原戦後、防長両国を輝元・秀就に「進置(まいらせおく)」べき旨を誓った起請文)、それが本物であることを証した井伊直政の添書、秀忠の朱印状の本書(この三通とも毛利報公会文書として現存する)を見せ、由緒を説いた。福間がこの直後に仕入れた情報では、最近たびたび秀元と就隆が酒井を訪れていること、また最近しきりに二人が土井を訪れ、内々の対談があり、秀元は永井尚政をも伴っていたことが分かった。秀元と就隆が、別朱印を出してもらおうと運動を展開していたのである。土井利勝(老中、萩藩の取次である)の忠告で、朱印改め奉行宛に覚書を提出(十三日朝)することになった。防長両国の朱印は、秀忠朱印状と同内容のものをいただきたい、家康・秀忠のときと同じように今度もまるごといただきたいと思うが、それは将軍のお考えに従う、という二カ条の覚書である。
 七月十六日、秀就に呼び出しがあって、二条城へ登城したところ、土井・酒井を通じて申し渡しがあり、朱印状を受け取った。秀就は先代秀忠の朱印状に少しも相違なく頂戴し、有難く思う旨を述べた。退出ののち、秀就はお礼のため老中の他一三人のところを訪れた。十八日に秀就に暇が出、二十日に京を発って帰国の途についた(以上、毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」)。このとき秀就がもらった徳川家光領知判物(毛利報公会所蔵)は、つぎのごとくである。実際にもらった日は、閏七月十六日のはずであるが、判物の日付が八月四日になっているのは、閏月を忌んで、良い日付を選んだためと思われる。
周防国弐拾万弐千七百八拾七石余、長門国拾六万六千六百弐拾三石余、都合三拾六万九千四百拾壱石 目録在別紙 事、任(まかせ)去元和三年九月五日先判之旨、全可領知(まったくせしむべき)之状、如件(くだんのごとし)
 寛永十一年八月四日(花押(秀忠))
           長門少将(秀就)殿

 これで本藩が希望したとおり、「少茂(も)ぬけめなく」、つまり防長二カ国もれなく(まるごと)秀就が拝領し、内配(うちくば)りとして支藩領があるという関係が確定した。もし、長府藩・下松藩に別朱印が発給されていたら、支藩の自立性が強まっていたであろう。本藩は、それを封じ込めることに一応成功したのである。ここで注意すべきは、本藩・支藩の関係が、本・支の直接的関係のみで決まるのではなく、将軍を介することによって(三者の関係によって)決まるといってよい点である。その後、本・支藩関係の重要な案件が持ち上がった場合、かならずこの年の朱印一件が持ち出された。その意味で、この朱印一件の帰結とは、近世を通じて萩藩における本・支藩関係の大枠を確定したといえる。因みに、朱印一件のさい、本藩から幕府に提出した萩藩の石高と内配り高は、朱印高三六万九四〇〇石余(内配りは、秀元五万八〇〇〇石余、吉川広正四万五〇〇〇石余、就隆三万石)、寛永検地高六五万六三三七石(内配りは、八万三〇〇〇石余、六万石、四万五〇〇〇石)であった。就隆への内配り高が、朱印高で三万石となっているのは、後年二万五五〇石と幕府に報告されることもあり、また寛永検地高の四万五〇〇〇石というのは、前述したごとく就隆の希望による水増し高で、実際は四万一〇石であった。