一六三五年(寛永十二)年三月、就隆が秀就のところへ出入りせず、「不通(ふつう)」(縁を切ること)状態になっていることを聞いて、有馬豊氏(久留米藩主)と安藤伝十郎(萩藩馴染みの旗本)とが仲直りの仲介役を買って出た。秀就の言い分では、「日向守(就隆)儀、去年於(おいて)二京都一ニ不届成(ふとどきなる)仕合(しあわせ)御座候」、つまり別朱印を願ったことが不当であり、そのうえ来年行われる「天下御普請役」(江戸糀町見付普請)を加勢するように言っても、秀元と同様に拒否したので、「無二是非一、為二折檻一しかり候而(て)置申候」という。秀元・就隆とも、先例によって、普請役を勤めないというのである。先例とは、この二人が在江戸して本家のために尽くしているので、輝元のはからいで普請役を免除していたことを指す。本藩の言い分としては、老中をはじめ全部の大名が普請役を勤め(無役の者はいない)また朱印は秀就がまるごともらい、天下普請役は朱印高にかかるのだから、本藩の言うことをきき、内配り高分を負担するのが当然である、というもので、前述の朱印状一件を下敷きにした主張である。普請役に関しては、普請途中でのトラブルを遠慮し、翌年完成のうえ、老中に申し入れを行うことになる。仲直りの件は、就隆が「以来共(とも)ニ長門守殿被レ仰候所、少茂(も)違背(いはい)仕間敷(つかまつるまじく)候、万事仰ニ随可レ申候」ことを受け入れることで決着し、三月二十日、就隆・有馬豊氏・安藤伝十郎が萩藩邸(桜田邸)を訪れた(毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」、『毛利家文書』)。
翌三六年(寛永十三)四月、普請役が終わった段階で、老中の土井利勝・酒井忠勝・松平信綱へ本藩から申し入れをした。秀元・就隆の知行は、防長両国をまるごと秀就が頂戴した朱印の内であり、「甲斐守(秀元)儀、長門守所江(え)出入茂(も)不仕、不通之仕合」の状態では、一層輝元の代のように免除できないので、普請役をぜひ負担すべきであった。普請前にこのことを老中に持ち込めば、普請の支障となり、将軍への馳走の気持ちと矛盾するので、普請が終わったいま申し入れる。後年普請役のとき、また両人が拒否するようなことがあれば、老中から勤めるよう命令していただきたい。以上が、申し入れの内容であった。
翌月、老中承知のうえで、永井尚政・柳生宗矩の仲介によって、秀就と秀元の仲直りが行われた。別朱印願い一件、普請役拒否、さらに秀元の嫡子光広と秀就の女との結婚話の不調と、就隆・秀就の間柄以上にこじれており、仲直りも表向き以上に出ることはなかった(毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」「公儀所日乗」)。