一六三八年(寛永十五)、就隆は一八年ぶりに帰国した。三一年に完成していた下松館は、はじめて主人を迎えることになったのである。就隆は六月末から七月上旬にかけて萩を訪れ、折から帰国中の秀就に会った。さらに就隆は八月に長府を訪れ、秀元に会った。十二月には、今度は秀元が参勤の途次下松に立ち寄って就隆に会った(「徳山藩史」、『毛利家乗』)。このころは、こうして本・支藩の関係、支藩同士の関係(婿・甥の関係でもある)が、小康を得ていた。
しかし、四〇年(寛永十七)春に就隆の室(秀元の女松菊)が秀元のところに立ち退き、このまま暇を出すよう(つまり離婚してくれるよう)就隆に求めた。秀就が仲裁に入り、妻の方から暇を求めるのでは就隆の外聞が立たないので、いったん戻るよう、秀元・松菊に説いたが、松菊は戻らないといい、秀元は戻さないといって、結局そのままとなった(「福間彦右衛門覚書」)。長府藩の見方では、六月五日に帰邸、「後チ(のち)終ニ大帰ス」(離婚した)としている(『毛利家乗』)。輝元が、かつて構想した本支関係とは、まるで逆の事態があれこれと進行したということになる。