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本藩からの合力

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 一六四〇年(寛永十七)六月二十八日の「防長両国寛永九年以降五カ年御蔵入物成請払算用一紙」(毛利家文庫)によると、
  壱万三千五百石
  右日向(就隆)様へ三ケ度ニ銀三百貫目被進之(まいらせる)分

とあって、この時期就隆に対して本藩から三度に分けて、合計銀三〇〇貫目、米にして一万三五〇〇石もの合力(援助)をしている。また、同年六月二十五日の記事(毛利家文庫「杉小箱控」の「日向様御所帯向御理之次第」)をみると、帰国前に就隆が本藩江戸留守居の国司就正と福間就辰を呼んで、秀就に心付けを乞うている。財政が悪化し、「今度御上支度(おのぼりしたく)何共可成様無御座候」とある。つまり帰国費用が出ないほどである。借銀も大分あって、お金の貸し手もいない。近年阿曽沼就春(本藩当役)を頼って、「宗瑞(輝元)様御隠居領三万石之儀、被御訴訟候へ共、今に不相調候」と述べ、輝元隠居領三万石(輝元死後本藩領に吸収された)は就隆に来るはずのところが、そうはならなかったので、秀就とかけあっている、というのである。それがまだ実現しないため、二人(国司と福間)に肝煎を頼むという。二人は驚き、就隆には確かに知行三万石が与えられており、宗瑞隠居領をいまさら分けよというのは無理なことで、心付けにしても、秀就から「度々(たびたび)銀子なと被御合力たる義候間」、またよこせというのは言いにくい、と返答した。そして二人は、財政の窮迫がはっきりしたなら、本藩に財政を全部頼み、萩から一人招いて、その人物に全権を委任して財政改革をしたらどうかと逆提案した。就隆は仕方がないのでそのように兄に言ってくれるよう頼み、秀就は、その話はもっともなので国に帰って重臣と相談してみようと言った。
 以上が「日向様御所帯向御理之次第」の記事の内容であるが、こののちこのような本藩の介入を招くような筋書でことが運んだとは思えない。しかし、就隆の在江戸によって下松藩の財政はかなり苦しくなっていたこと、本藩からの財政援助が期待され、また事実たびたび合力がなされていたこと、就隆は父輝元の隠居領三万石は自分のものになるべきだ(仮に実現していれば秀元と肩を並べる知行高となる)と考えていたこと、などが窺え、はなはだ興味深い。