一六四九年(慶安二)六月、おりからの地震で、江戸城の石垣が破損した。諸大名は、将軍への馳走として、こぞって修築普請の手伝いを申し出た。秀就も、同年に内桜田見付(みつけ)(いわゆる江戸城三六見付の一。見付とは枡形(ますかた)のある城門の、外方に面する部分をいう)、翌年に外桜田口平石垣、半蔵町口門台の修築を行った。秀就は、同年十月就隆に対し、翌春予定されていた外桜田口普請から加勢するよう申し入れた。それも普請費用や人夫を出すには及ばない、家臣を五-三人肝煎(きもいり)分として出し、名目だけ普請役を勤めればよい、と予め譲歩した申し入れをした。就隆は財政難だし、これまでも勤めていないという理由で、十二月になってようやく回答、それも拒否の回答を行った。秀就は激怒し、翌五〇年正月就隆の出入り無用を宣言し、再び不通となった。三五年(寛永十二)に、これからは兄の(本藩の)言うことをきくという条件で仲直りしたのに、それに「相違」したので「再(ふたたび)御不快之事」となったのである。
秀元も、やはり加勢を拒否した。二月一三日に秀就は、萩藩の取次である老中松平信綱を訪れ、「数通御証文共ニ被レ懸二御目一候」、つまりかつて別朱印願い一件で老中たちに見せた切札-家康の起請文・秀忠の領知朱印状・家光の領知朱印状-を再度使うことになった。すなわち防長両国は秀就がまるごと朱印を拝領し、それを支藩に内配(うちくば)りしているのだから、この二人は秀就の下知に従い、内配り高分の負担をすべきだと説き、この件を承知しておいてほしいと申し入れた。いずれにしても、「永々共ニ両国一偏ニしまり」をしたい、つまり、ほかでもなく本藩の宗主権を主張しているのである。これは三四年(寛永十一)領知朱印状一件から、一貫した主張であり、以後も繰返し再生産される。このことは、本・支藩関係の基底をなす明白な事実である(毛利家文庫「杉小箱控」「福間彦右衛門覚書」「公儀所日乗」)。