一六四五年(正保二)五月三日、本藩家臣の宍道元兼(当役)と福間就辰(公儀人)が、就隆から呼ばれた。就隆が言うには、
御住所下松所から(柄)悪敷(あしく)、御屋敷廻り万事御不勝手ニて御難儀ニ候間、野上へ御住所被レ成二御替一度(たく)候、いかゝ可レ有レ之候哉、
と(「杉小箱控」)。陣屋の所在地下松は、所柄が悪く、屋敷まわりが種々不便であるから、野上村(のちの徳山)へ陣屋を移したい。秀就が承知するなら、幕府から許可をとってほしいという。秀就は、承知したので野上の移転予定地・屋敷の絵図を整えて持参せよ、と答えた。六月七日に絵図が完成したので、本藩では老中松平信綱へ絵図に本藩からの願書を添えて提出した。信綱は絵図はこれでよいが、願書の書き方を少し直したほうがよいと指導した。そこで願書を修正し、絵図に秀就の花押(サインの一種)をすえて再提出した(毛利家文庫「杉小箱控」「公儀所日乗」)。