周防国下松毛利日向屋敷構所(かまえどころ)悪ニ付、同国北野上村へ移度ニ付、彼地ニ屋敷構有之而、西ノ方堀をほり、築二土手一、懸レ塀、門建之事、東北之方ハ片岸ニ付而、其上ニ懸レ塀事、南之方築二土手一、懸レ塀、門建之事、絵図之通達二上聞一候処、普請可二申付一之旨被二仰出一候、可レ被得二其意一(そのこころをえらぶべく)候、恐々謹言(きょうきょうきんげん)、
慶安元子
六月十五日 松平伊豆守(信綱)
阿部対馬守(重次)
阿部豊後守(忠秋)
松平長門守(毛利秀就)殿
六月十五日 松平伊豆守(信綱)
阿部対馬守(重次)
阿部豊後守(忠秋)
松平長門守(毛利秀就)殿
下松の就隆屋敷は、所柄が悪く、北野上村へ移りたいというので、北野上村に屋敷を構え、屋敷の西の方は堀を掘って土手・塀・門をつくること、東北の方は片岸なので(傾斜地で高くなっている)上に塀をつくり、南側は土手・塀・門をつくること、これらを絵図に示して将軍に伺ったところ、普請してもよろしいとおっしゃった。そのように承知されたい。許可の内容は、以上のようであった。この許可に従って、同年十一月十九日鍬初(徳山毛利家文庫「古記」、『徳山市史史料』所載。「徳山藩史」では十月朔日説をとっている)が行われた。
右の経過に関して、四六年(正保三)六月七日願書提出、同月十五日許可説をとるものがある。「福間彦右衛門覚書」と「杉小箱控」の一部である。それは、四五年六月七日願書提出から四八年(慶安元)六月十五日まで、まる三年かかっている事実と、六月七日と六月十五日という月が同じである事実からくる勘違いと思われる。「福間彦右衛門覚書」では、許可証(前掲の奉書)を「殿様御在国ニ付、御国江差上申候」としているが、四六年(正保三)では秀就はまだ江戸におり、四八年(慶安元)では在国していて、後者でなければ、時期的に該当しない。「杉小箱控」の方は、地の文の説明では、正保二年六月七日願書提出としながら、引用している願書の日付を正保三年六月七日と誤っているものである。検討しえた史料(「公儀所日乗」「杉小箱控」「福間彦右衛門覚書」「徳山御旧記」「有故雑文」など)の範囲でいえば、やはり四五年(正保二)六月七日願書提出、四八年(慶安元)六月十五日許可と解するのが妥当である。しかし、なぜ三年もかかったのか、という謎は依然として残る。