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移転の理由

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 陣屋(館)をなにゆえ下松から徳山に移転したのであろうか。館が、山を背にしたやや高台にある点では共通である。前述した下松の船倉と遠石の船倉を比較しても、海上交通上の優劣はない。史料で、「御住所下松所から(柄)悪敷(あしく)、御屋敷廻り万事御不勝手ニて御難儀」(「杉小箱控」)とあり、屋敷まわりの不便さが意識されていたことが問題になる。屋敷(館)の前面に展開する侍屋敷・諸役所・町人屋敷などの配置を考えた場合、空間上、徳山の方が広いとみられたのではなかろうか。また、替地以降の所領の分布をみると所領が西へのび、下松を中心にしたのでは、中心が東へ偏っている。徳山移転後は、徳山を中心に東分と西分に支配領域の区分をするなど、地理的にみても徳山は中心に位置するようになる。野上郷が、山陽道に面し、寛永検地の段階(一六二五年)でも、市屋敷一二八カ所を数える有数の市町であったことも勘案されたかもしれない。
 一六四八年(慶安元)十一月に「御屋敷御鍬初」を行い、移転が始まったが、その翌年のものと思われる四月十九日付粟屋監物宛就隆書状(山口大学人文学部国史研究室所蔵「粟屋家文書」)に、
一書申遣候、野上屋鋪(やしき)地引人力給領之百性(姓)共指出候通、於其元手堅申付候へと申聞候処、出人緩(ゆるがせ)有之様聞届候、人力飯米不足可申様是又聞届候、
とあって、工事に支障があった様子が分かる。屋敷の「地引」人足を、家臣の知行地の百姓たちから出させるように、国元で確実に申付けよと命じたところ、人足を出すのをなおざりにしているとのこと、また、人足に支給する飯米も不足しているとのことを承知した。熊谷将監と相談して適切に諸事を運べ、と就隆は指示している。五〇年(慶安三)には、「浜崎猟人町」を新たにつくるので、一七軒各五畝の屋敷を与え、「拾壱人下松より、五人福川より、壱人富海より、右拾七人江猟船拾艘買候様ニ被仰付、代銀七百目被遣、右三ケ浦より役目ニ指出候事」とあり、下松浦(一一人)・福川浦(五人)・富海浦(一人)から漁師一七人を移住させ、漁船を買う代銀を与えている(「旧記抜書」)。
 同年九月二十八日に、野上から徳山へ地名を変更する件を幕府に伺い、即日許可を得ている(「徳山御旧記」)。
 同(九月)廿八日
一所替普請出来(しゅったい)ニ付、左之通
  私在所奉願候移替、此節迄追々居所普請出来仕候、唯今追々地名相改、徳山与(と)唱申度、依之申上候、以上
   九月
右即日可為(たるべき)勝手次第之旨、阿部対馬守(重次)様より御達有之候、

 館は、四九年(慶安二)十月二十二日落成、翌年六月十日就隆の移徙(わたまし)(転居)とされている(「徳山藩史」)ので、そのあと九月二十八日に徳山に改称の許可がおりたということになる。五二年(承応元)には、侍屋敷の町割ができて、家臣への屋敷地の割り渡しと引越料支給が行われた。