五〇年(慶安三)正月、秀就と就隆の間は、前述したように(本章、4)普請役をめぐって「不通」の関係になってしまった。翌五一年正月に秀就が卒し、本藩が綱広の代になっても「不通」は変わらず、五八年(万治元)四月の綱広の婚儀のさい、就隆が何の前ぶれもなく訪れたが、対面はしたものの和解にいたったわけではなかった。そこへ六〇年正月、就隆次女(千福子)と旗本岡部美濃守の末子岡部主税(ちから)高成との結婚話が持ち上がった。就隆は、このとき五九歳で男子がなく、本藩ではこれは聟養子の縁組ではないかと疑った。そこで萩藩の取次である老中松平信綱に、次のように相談した。就隆の女の結婚話は、聟養子だという噂であるが、就隆から何も言って来ず、また「不通」なので、その真否は分からない。かりに本・支藩の仲が良く、本藩に相談し、綱広の考え次第で幕府へ伺うのであれば問題はないが、何も知らせず、「不通」状態で勝手に話を進めるのは困る。何といっても就隆の知行は、綱広が将軍から拝領している朱印の内である。それを旗本から聟養子をとり、綱広の手をはなれて、軍役・普請役を勤めるように言っても、知らん顔をするつもりとみえる。そうなれば、綱広拝領の朱印が、事実上分割されたようなことになるので、訴訟せざるをえない。どのように措置したらよいでしょうか。
この件は、綱広の後見の松平光長(秀就の女、つまり綱広の妹が室に入っている越後高田藩主)と松平直政(秀就室の弟で、松江藩主)にも相談したが、信綱の指示に従えとのことであった。松平信綱が答えて言うには、綱広と就隆の間柄を、①普請役とか出陣のとき、綱広の一手に就隆も加わり、綱広に従うようにしたいのか、それとも②この間のままにしておきたいのか。②のほうにしておいて、時節を待つほうがよいと思うが、いずれにしたいのかお聞かせ願いたい。②の状態は、江戸城にある分限帳に、秀元(長府藩)・就隆(徳山藩)とも名を載せたいと思っているが、載せられていない。二者とも幕府からの触(法令・命令)なども直接うけようとしているが、直接には触れず、今までは綱広(本藩)へ触れている。これなら別に問題はないのではないか。①の状態、つまり普請役やそのほか「万事一手ニ随候様ニ急度相定被レ為レ置度(おかせられたく)候ハヽ」(万事について綱広に従うように確定しておきたいのなら)、将軍に訴訟しなさい。しかし訴訟を提起して、どのような裁可があるのか(それは将軍の威光なので)、我々には予断することはできない。以上が信綱の答えである。このとき使をした当役の堅田就政と公儀人の福間就辰は、江戸城の分限帳に支藩の知行高が付けられておらず、幕府の触なども直接支藩に行かず、本藩に伝えられる(本藩を通じて支藩へ触れる)のであれば、問題はないと思うと答えた。六〇年正月晦日に、老中列座の評定のとき、月番の阿部忠秋から右の結婚について、将軍への伺帳に付けるべきか否かを披露した。そのさい、松平信綱からこの件が養子であるなら、就隆の知行は綱広の朱印の内であるから、綱広からクレームがつくのではないかと一言あって、将軍の耳へ入れるのは延期となった。この後種々経緯があって、結局四月十四日に許可となったが、それは通常の嫁入りということであった(毛利家文庫「福間彦右衛門覚書」「大記録」)。
この一件に関しても、萩藩の取次老中松平信綱の果たした役割は大きく、本・支藩の関係は、やはり将軍を介して決まっているという点が重要である。綱広(萩本藩)は、①か②かの選択を迫られ、このときは②の方を選択した。いずれも、一六三四年(寛永十一)の領知朱印状一件を基底にして、①の方が厳格な宗主権の主張であるのに対し、②の方は穏やかなそれである。①の方を選択すれば、本藩も冒険を強いられる。それは将軍の威光に属する問題であり、本藩の思惑を超えるからである。ここで考えたいのは、後年の徳山藩改易(取りつぶし)は、本藩主吉元が①を選択して将軍に訴訟した結果であるということである。吉元は、本藩の宗主権を主張し、かつ徳山藩主元次の隠居と嫡子元堯の家督を願った。しかし結果は本藩の思惑を超え、改易にまで至る。こう考えると、徳山藩改易は現象としてはショッキングであるが、構図としてはすでにはやくから存在したものである。長府藩についても、この点同じことがいえよう。