一何篇御蔵入之分に念を入、七ツ三分之物成に可二検地一事
とあって、先行した蔵入(藩の直轄地)の検地と同様、知行地(家臣に宛行(あてが)った給地)の検地も、物成(年貢)を石高の七三パーセント取るつもりで検地せよといっている(「譜録三井善兵衛」の慶長十四年(一六〇九)「再検申付条々之事」)。慶長五年の検地高に対しても、七三パーセント程度が年貢とされていたが、今回の検地では年貢率は変更せず、石高を一・八倍に打ち出した、つまり、石高が一・八倍になるということは、年貢も一・八倍になるということを意味した。
現下松市域の村々の両慶長検地高を比較したのが表1である。慶長五年検地高を一〇〇とした場合の慶長十五年検地高の指数は、切山村の一四三から瀬戸村の二一〇までの間であり、平均で一七八となって、防長両国の平均一八〇にみあう数値となっている。七三パーセントという過酷な年貢率が、実際に収奪の目安とされていたことは、下松藩で、慶長十五年検地に基づいて打ち渡された村々の石高を、「七ツ三分高」と称している事実からも明らかである。しかし、この検地は過酷かつ杜撰だったために、農村の疲弊を招き(「欠落(かけおち)」百姓が続出した)、年貢実績もしだいに低下していった。幕府との間での公称高(朱印高といい、この高に応じて軍役を勤めた)は、それまで慶長五年検地高をもとにした三〇万石であったが、一六一三年(慶長十八)に三六・九万石余と改訂した。新検地高五四万石を公称高にしたのでは、軍役が勤めがたいので、近隣大名の打ち出し率にせよとの幕府の指示に従い、公称高は一・二三倍の伸びに止めたのである。この幕府との交渉過程で、交渉役である福原広俊は、「検地仕損候趣」と、輝元宛書状で書いている(山口県文書館蔵毛利家文庫福原広俊書状)。藩当局自身が、今回の検地の失敗を認めていたわけである。
表1 慶長検地高の比較 |
村名 | 慶長5年検地高 | 慶長15年検地高 |
石 | 石 | |
切山村 | 657.200 | 939.721(143) |
山田村 | 679.060 | 1,022.555(151) |
河内村 | 1,509.802 | 2,287.518(152) |
豊井保 | 1,141.003 | 2,262.691(198) |
末武庄・生野屋 | 3,311.966 | 5,959.735(180) |
瀬戸村 | 247.907 | 520.533(210) |
温見村 | 218.709 | 337.774(154) |
大藤谷 | 134.990 | 241.386(179) |
須々万郷 | 1,708.200 | 3,485.496(204) |
計 | 9,608.837 | 17,057.409(178) |
※ | 慶長5年検地高は、山口県文書館蔵県庁旧藩記録「慶長五年御朱印兼重和泉蔵田與三兵衛検見帳」による。慶長15年検地高は、同「三井但馬蔵田與三兵衛検見帳」による。 |
※ | ( )内の数字は、慶長5年検地高を100とした場合の指数。 |
※ | 豊井保には相嶋を含む。下谷村は須々万郷に含まれ、下谷村のみの数値を分離できないので、須々万郷の数値のままを掲げた。 |