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豊井村の打渡坪付帳

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 慶長十五年検地の具体相を知るために、一六一七年(元和三)四月二十八日付の徳山毛利打渡帳(山口県文書館蔵徳山毛利家文庫)をみてみよう。この元和三年打渡坪付帳は、慶長十五年検地帳をもとに作成され、本藩から下松藩成立にさいして引き渡されたもので、慶長十五年検地の内容を知るための貴重な現存史料である。慶長十五年検地高と元和三年打渡高とを比較すると、山田村・瀬戸村・大藤谷村・須々万郷(下谷村を含む)で同一の数値であり、河内村(二二八七石五斗一升八合と二二九二石八斗二升七合)、豊井保(相嶋村を含んで二二六二石六斗九升一合と二三三九石七升一合)、温見村(三三七石七斗七升四合と三四三石七斗六升四合)で若干増加している。この増加の原因は、おそらくこの数年間の新開を追加したものとみられ、それを除けば、元和打渡帳は、慶長十五年検地帳を忠実に踏襲したものといえる。豊井村の打渡坪付帳の冒頭は、
    豊井御蔵入
  岩崎みそ挾        下松ノ
  畠五畝十歩  米二斗六升   三十郎
  同所みそハサミ      土谷ノ
  畠一反一畝十歩 米七斗    二郎三郎

のように書き出し、まず、蔵入・知行地の別を記し、各筆の記載に入っていく。各筆では、まず右肩に穂(ほ)ノ木(小字)をあげて田・畠・屋敷の耕地種目を記し、つぎに面積、分米(ぶんまい)、名請人を記録する。分米は石高(こくだか)で記し、石高は、人が耕地その他の労働対象に労働を投下して得られる富(価値)を、米の高に換算したものである。したがって、米を産する田だけでなく、米を産しない畠・屋敷・樹木・塩浜などにも、その価値を米に換算した石高が付けられる。
 表2は、豊井村の打渡坪付帳の田を任意に抽出し、反当石盛の順に並べたものである。この表でまず注目されるのは、面積表示が、ほとんど畝までで、歩の単位が出てくる場合は、かならず一〇歩・二〇歩といった表示までである点である。検地条目に、「大なわ(縄)割、停止之事」とあって、検地方針では丈量を厳密に行うよう指示しているので、これまでの研究では、実態面でも正確に丈量されたものとみられてきた。しかし、右にみた面積表示の大雑把さからいって丈量の正確さには疑問がある。後年の史料に、一六八六年(貞享三)の検地を境に、面積丈量が正確になったので、それまで行っていた検地検見(けみ)(検見の都度面積を丈量する)を廃止したとある(宝永三年(一七〇六)「御検見被仰付様の次第覚」、『山口県史料』所収)。貞享検地以前の面積表示は、きわめて杜撰で、一反と表示のある田が実際は二反であった場合や、同じく一反と表示のある田が実際は八畝しかないという例があったといい、そのため検見の都度、田の面積を測ったというわけである。貞享検地以前の検地で、全面的に面積を丈量したのは、慶長十五年検地であるから、この検地での面積丈量が杜撰だったことになる。
表2 田方の面積表示・石盛例
分 米
(石)
反当石盛
(石)
四捨五入
113.5303.209
92.2002.444
153.4902.327
81.8002.250
4100.9602.215
51.1002.200
16203.6402.184
13102.8002.100
122.4502.042
91.8002.000
234.5001.957
20.3601.800
13223.0001.742
426.9001.643
142.2001.571
30.4601.533
20.3001.500
223.1001.409
1100.1801.350
91.2001.333
50.6201.240
10.1001.000
151.1000.733
20.0900.450

 もう一度表2に立ちかえって、田地の反当石盛をみると、まず二石を超える非常に高い石盛のあることが知れる。中国筋諸藩の田地の石盛中でもっとも高いのは、知られる限りで上田一反二石であるから、それと比較して萩藩の検地の石盛の厳しさが知れよう。また、石盛の仕方について、検地条目では、「一田畠上ノ上、上、中、下、下ノ下、以上五とをりに相定の事」と五段階に石盛をするように指示している。ところが実際には表2のように、はるかに多段階の石盛になっており、むしろ上田一反何石何斗というようにあらかじめ石盛を決めるやり方とは異なった方法を想定させる。豊井村の田の反当石盛の平均は一石四斗八升七合、同畠三斗六升三合、同屋敷八斗六升三合である。これ以外に有用樹の茶・桑・柿・唐柿(いちじく)・椿・柚・みかん・山椒・梅などにも石高が付けられており、「小成物」(一般には小物成と表現される雑税)として一括されている。
 また、豊井村には、右にみた地方(じかた)(村)部分以外に、下松東市の町方(まちかた)(市町)の部分がある。その市屋敷は、
    下松東市
  北小路ノ西かと
  面五間弐尺入八間、後弐間壱尺  弥三郎
       壱畝一歩、米四斗二升
  面三間入十九間、後二間弐尺   万五郎
     壱畝十八歩、米六斗二升

のように記載され、一筆目は反当石盛が実に四石六升五合、二筆目は同三石八斗七升五合に当たる。市屋敷の合計部分は、
  下松東浦
   市屋敷 百三十九ケ所 三町四反九畝
   米百拾八石五斗七升

とあり、平均の反当石盛は、三石三斗九升七合となる。この市屋敷一三九カ所という数は、花岡市五四カ所と比較しても多く、下松西市五一カ所(これは、「三井但馬蔵田興三兵衛検見帳」の末武村・生野屋の項の市屋敷・浦屋敷から推定した)とあわせると、下松には当時としては相当の町並があったことになる。下松東浦(「下松東市」とも)の「市屋敷百三十九ケ所」は、慶長十五年「検見帳」では「浦屋敷」一三九カ所となっていて、かつ「米三百八拾壱石四斗三升 下松東浦立銀」の数からみても、ここは有数の浦であり、市町であったといえる。また、豊井村の打渡坪付には、
    塩浜
  浜四畝 米一石七斗六升  次郎兵衛

につづいて塩浜が九〇筆記載され、反当五石の驚くべき高石盛も存在する。それに、「塩屋」も一二カ所記載されている。総計に、
   浜数壱町七反壱畝
  以上塩屋拾弐ケ所
   米七拾壱石壱斗八升
   一米七拾壱石壱斗八升 右之仕入之利分
   二口
    合百四拾弐石三斗六升
     銀ニシテ壱貫四百弐拾三匁六分 御立銀

と、「塩浜立銀」の部分が記載されている。このように豊井村は地方(じかた)の機能以外に、下松の市町・浦・塩田の機能をあわせもち、当時下松藩の中心地たるに相応しい地域であった。