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河内村の打渡帳

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 河内村(近世中期に分村する来巻も含む)の打渡坪付帳は、「先御蔵入」(下松藩への打渡以前は本藩の直轄地)と給地(同本藩家臣の知行地)の二分冊になっている。前者で注目されるのは、市屋敷の記載である。「河内ノ内窪市」(久保市)には、二七カ所の市屋敷の記載があり、「上小路西かと(角)」「下小路東ノかと」の地名と、この市町の役人である目代喜右衛門の名がみえる。「峠市」には、一七カ所の市屋敷が記載されているが、「熊毛分上小路東ノかと」二カ所「熊毛分下小路東ノかと」四カ所を含んでおり、行政区画からすれば他に属するものを、市町としてのつながりの便宜からあわせて記載したのであろう。「目代彦二郎」の名も見える。「岡市」には、一七カ所の市屋敷が記載され、「下小路西かと」「南小路東ノかと」「ゑひすやき」などの地名が見え、「目代神兵衛」の名も記す。「窪市」「峠市」「岡市」をあわせて、「市屋敷六十壱ケ所弐町壱反七畝 米弐拾七石壱斗八升」となる。この村には、「山役」二石四斗、「河役」八斗弐升五合の石高が付けられており、米一〇石銀一〇〇匁の計算で銀高が計上されている。山と川(魚をとる)にも課税しているわけである。
 さて、もう一冊の打渡帳は、「福越州給」(福原広俊の知行地だった)・「玉虫源允給」・「粟屋市兵衛給」・「糸賀真作給」・「山田但馬給」・「井上小右衛門給」・「河野太郎兵衛給」・「かぢ佐右衛門給」・「妙見領」・「曽根弥次郎給」・「岡六右衛門給」と、計一一名の知行地であったことを示す。福原広俊は、この河内村に三九六石八升三合の知行地を持っていたが、下松藩分知にともなってそれを手離し、さらに一六二一年(元和七)の替地で富海村を手離すことになる。「妙見領」は、河内村に一九石八斗八升五合あった。河内村の田地の反当石盛は一石四斗七升八合、同畠地は四斗六升二合、同屋敷は一石四升五合、同市屋敷は一石二斗五升三合である。因みに先にみた豊井村のそれが、順に一石四斗八升七合、三斗六升三合、八斗六升三合、三石三斗九升七合である。
 参考のために、現下松市域に関係する村々の慶長十五年倹地の各項目を表3に掲げる。
表3 慶長15年検地
地名屋敷
切山村62町1段2畝10歩21町2段3畝20歩68カ所2町5段9畝
米837.510米78.350米22.450
山田村6647201381046カ所219
米924.170米50.965米26.130
河内保137210447204カ所74820
米1968.510米202.395米78.510
豊井保1057620524210171カ所64220
米1450.971米185.090米55.090
末武村・生野屋3683820568720385カ所137220
米5353.678米218.696米150.288
瀬戸34510285553カ所2510
米424.533米68.009米20.060
温見村255653938カ所12320
米304.980米18.455米11.960
大藤谷20264692015カ所7510
米217.110米15.960米7.590
須々万2408220272210320カ所14
米2949.200米366.925米129.490

地名小成物その他
切山村
米1.411
 
989.721
 
山田村米3.290 
 
1,022.555
河内保米7.544市屋敷61カ所2町6段7畝20歩2,287.518
米30.559
豊井保米1.260浦屋敷139カ所3町4段 10歩浦浮役米381.4302,262.691
米118.570塩浜方米70.280
末武村・生野屋米11.963市屋敷54カ所2町7段7畝浦屋敷
51カ所
1町5段9畝20歩浦浮役米68.9405,959.735
米44.200米61.060塩浜方米50.910
瀬戸米7.931 
 
520.533
温見村米2.379 
 
337.774
大藤谷米0.726 
 
241.386
須々万米39.881 
 
3,485.496
 出典は山口県文書館蔵県庁旧藩記録「三井但馬蔵田與三兵衛検見帳」。