右御帳去年御究之時、四ケ年物成各百姓中指出仕上ケ候辻を以折合、五ツ成ニシテ(して)新帳調上ケ申候、庄屋百姓中として石辻之寄退毛頭(よせのけもうとう)不レ仕、地下小百姓中ヨリ以来申分(もうしぶん)御座有間敷候、為レ堅如レ件(くだんのごとし)
寛永三年 温見村 庄屋
十二月五日 源蔵(花押・印)
右之坪付念を入申付、少も無レ紛候条、奥書仕所如レ件
同日 福間淡路(花押・印)
熊野藤兵衛殿
右庄屋坪付帳差出并御代官任二奥書一、判形可レ仕之通候条、如レ此候、以上
同日 熊野藤兵衛(花押・印)
福間淡路守殿
寛永三年 温見村 庄屋
十二月五日 源蔵(花押・印)
右之坪付念を入申付、少も無レ紛候条、奥書仕所如レ件
同日 福間淡路(花押・印)
熊野藤兵衛殿
右庄屋坪付帳差出并御代官任二奥書一、判形可レ仕之通候条、如レ此候、以上
同日 熊野藤兵衛(花押・印)
福間淡路守殿
とある。つまり、また大々的に丈量・石盛をするのではなくて、一六二一~二四年(元和七~寛永元)の四年間の年貢実績を平均し、その平均年貢額が五つ成(なり)(石高に対して五〇パーセントの年貢率)に当たるように石高を決定した。平均年貢額の倍が新石高となる。注意しておかねばならないのは、ここでいう五つ成というのは、五公五民(領主対百姓の取分比が五対五)を意味するのでなく、あくまで仮象にすぎないということである。新石高は、収穫をはるかに超えるもので、したがって領主の取り分は、収穫の五〇パーセントをはるかに超えていたはずである。
この検地の特徴は、丈量を基本的には行わずに、石高を年貢実績に基づいて「抨(なら)」すところにある。年貢実績に基づいている分、杜撰だった慶長検地よりも現実に近づいたといえよう。表4で慶長十五年検地と寛永二年検地を比較してみた。前者は七つ三分成を目途に検地が行われ、後者は年貢実績が五つ成に当たるよう検地が行われたから、検地当初に想定される年貢額は、それぞれの高に〇・七三、〇・五を乗じたものである。後者の想定年貢額を前者のそれで除し、一〇〇を乗じて指数を出せば、それが両検地間の年貢推移の目安となる。須々万郷(下谷村を含む)の六八から山田村の九二の間であり、平均で七九を示す。慶長検地での想定年貢額のほぼ二割減が、寛永検地でのそれということになる。いかに慶長検地が過酷で無理なものであったかを、この指数は示している。慶長十五年検地によって村々が疲弊した実情は、両検地の田畠の面積を比較した表5によっても窺いうる。どの村とも、田・畠の面積が減少しているのである。徳山毛利寛永打渡坪付帳によると、田畠各筆の面積表示は、前述した慶長検地(元和打渡坪付帳)のそれと同様に、ほとんどの筆で畝まで、歩単位の場合も一〇歩・二〇歩の表示である。面積は、基本的には測らず、荒地分(村々の疲弊による)を除いていったものと推定できる。
表4 慶長検地と寛永検地の比較 |
村名 | a 慶長検地高 | a×0.73 | b 寛永検地高 | b × 0.5 | b × 0.5/a × 0.73 ×100 |
石 | 石 | 石 | 石 | ||
切山村 | 939.721 | 685.996 | 1,175.322 | 587.661 | 86 |
山田村 | 1,022.555 | 746.465 | 1,370.085 | 685.043 | 92 |
河内村 | 2,287.518 | 1,669.888 | 3,022.371 | 1,511.186 | 90 |
豊井保 | 2,262.691 | 1,651.764 | 2,697.820 | 1,348.910 | 82 |
末武庄・生野屋 | 5,959.735 | 4,350.607 | 6,672.507 | 3,336.254 | 77 |
瀬戸村 | 520.533 | 379.989 | 611.444 | 305.722 | 80 |
温見村 | 337.774 | 246.575 | 414.848 | 207.424 | 84 |
大藤谷 | 241.386 | 176.212 | 260.609 | 130.305 | 74 |
須々万郷 (下谷村) | 3,485.496 | 2,544.412 | 3,485.050 | 1,742.525 | 68 |
※ | 寛永検地高は、山口県文書館蔵県庁旧藩記録「寛永弐年坪附帳」による。 |
※ | 豊井保には相嶋を含む。下谷村のみの高が分離できないので、須々万郷の高とした。 |
表5 慶長検地と寛永検地の田・畠面積の比較 |
村 名 | 慶長検地の 田の面積 | 寛永検地の 田の面積 | 慶長検地の 畠の面積 | 寛永検地の 畠の面積 | ||||||||||||
町 | 段 | 畝 | 歩 | 町 | 段 | 畝 | 歩 | 町 | 段 | 畝 | 歩 | 町 | 段 | 畝 | 歩 | |
切山村 | 62 | 1 | 2 | 10 | 57 | 5 | 5 | 20 | 21 | 2 | 3 | 20 | 18 | 4 | 7 | 20 |
山田村 | 66 | 4 | 7 | 10 | 64 | 1 | 8 | 20 | 13 | 8 | 10 | 9 | 8 | 7 | ||
河内保 | 137 | 2 | 10 | 127 | 2 | 2 | 9 | 44 | 7 | 39 | 3 | 23 | ||||
豊井保 (相嶋とも) | 105 | 7 | 6 | 20 | 103 | 2 | 8 | 23 | 52 | 4 | 2 | 10 | 44 | 3 | 1 | 16 |
末武村・生野屋 | 368 | 3 | 8 | 20 | 351 | 7 | 1 | 56 | 8 | 7 | 20 | 43 | 6 | 7 | 28 | |
瀬戸 | 34 | 5 | 10 | 32 | 3 | 9 | 28 | 5 | 5 | 14 | 2 | 9 | 20 | |||
温見村 | 25 | 5 | 6 | 22 | 8 | 9 | 5 | 3 | 9 | 4 | 3 | 1 | 20 | |||
大藤谷 | 20 | 2 | 6 | 17 | 2 | 2 | 10 | 4 | 6 | 9 | 20 | 2 | 5 | |||
須々万郷 (下谷とも) | 240 | 8 | 2 | 20 | 210 | 6 | 2 | 9 | 127 | 2 | 2 | 10 | 86 | 7 | 9 | 2 |
寛永検地の結果をもとに、一六二六年(寛永三)に知行地の大幅入替えが行われた。寛永検地によって、石高が水増された(約五四万石から約六五・八万石へ約一・二倍)にもかかわらず、家臣には基本的には前と同じ額の知行高を与えたので、家臣の実収は減少し、藩の財政は潤った。表6によると一六二一年(元和七)の知行替えによって本藩領となっていた、切山村・末武村・下谷村について、二六年の知行入替えの結果、切山村は繁沢監物五〇〇石・草苅対馬六〇〇石・木原左近先知七五石三斗二升二合の知行地、末武村は一村全部が蔵入(本藩の直轄地)、下谷村は木原左近先知四二四石六斗七升八合・中嶋善左衛門一二石五斗二升二合の知行地となった。因みに、延宝期ごろ(一六七三~八〇)の分限帳によると、切山村に繁沢二郎兵衛五〇〇石・草苅太郎左衛門三九七石の知行地が存在するので、切山村は本藩家臣二人の知行地であり続けたことがわかる(毛利家文庫「村別分限帳」)。一方下松藩は、一六二一年(元和七)の知行替以来、その領地は変わらず、寛永検地の結果、惣高は四万一〇石八斗五升となった。
表6 寛永知行替の結果 |
村 名 | 村 高 | 本・支藩の別 | 備 考 |
石 | |||
切山村 | 1,175.322 | 本藩領 | 500石(繁沢監物) 600石(草苅対馬) 75.322石(木原左近先地) |
山田村 | 1,370.085 | 下松藩領 | |
河内保 | 3,022.371 | 〃 | |
豊井保 | 2,470.732 | 〃 | 相嶋は含まない。 |
瀬 戸 | 611,444 | 〃 | |
温 見 | 414,848 | 〃 | |
大藤谷 | 260.609 | 〃 | |
生野屋 | 1,344.789 | 〃 | |
末 武 | 5,327.718 | 本藩領 | 全部蔵入地 |
下 谷 | 437.200 | 〃 | 424.678石(木原左近先地) 12.522石(中嶋善左衛門) |
※ | 出典は、山口県文書館蔵毛利家文庫「寛永三年給領御配郡別石高名付附立」。 |