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下松藩領村々の石高

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 下松藩領(徳山藩領)村々の石高の変遷をみていこう。表7は、一六七〇年(寛文十)の史料(「七ツ三歩御打渡石辻書立」徳山毛利家文庫「古記」)によって作成したものである。七ツ三分高は、一六一七年(元和三)ないし二一年(元和七)の打渡高であって、厳密には慶長検地高と少し違いがある。想定年貢額は、領主の収奪を意図した額であって、検見その他によって実際の年貢額はそれより減少する。しかし、おおよその年貢額の推移を知るには、充分の資料となる。五ツ成高は、寛永打渡し高とは異なる。下松藩全村(現下松市域以外の村々も含む)の寛永打渡し高は、四万一〇石八斗五升であり、同五ツ成高は、四万一二六一石四斗七升八合二勺五才である。前者を公称高、後者を実際の高とする説(『新南陽市史』)もあるが、ここでは両者とも実際に機能した高で、後者は寛永検地後の下松藩の手による抨(なら)しと考えておきたい。また、一六二二年(元和八)に下松藩が物成を四つ成に改めたとする説(「徳山藩史」)は、それがここにあげる四つ成高を指すとすれば、前後関係からして無理であり、五つ成高の次にこなければならない。下松藩全村の四つ成高は、五万四〇五石九斗五升六合二勺である。
 一六五一年(慶安四)に、「三ツ五歩平均(ならし)検地」が行われ、高五万四七五石三斗三升一合をえ、家臣への地方(じかた)知行(土地と人を宛行う)をやめて浮米知行(米で禄を与える)とした(「徳山藩史」)。ついで一六六〇年(万治三)検地を行い、高五万五四九九石四斗二合を得た。六五年(寛文五)地抨(じならし)と開作究(きわめ)を行い、高六万一三二六石弐斗四升五合を得、うち蔵入高は三万八九三九石三斗六升四合(六三パーセント余)であった。七〇年(寛文十)現在で、高六万一六三九石三斗九升三合七勺(うち二九四石一斗七升六合が新開)であり、新開を除くこの時点の高が、表7の三つ五分高と一致する(以上「徳山藩史」)。一六七七年(延宝五)~八七年(貞享四)の間は、後述するとおり四つ成に増徴するが、高は三つ五分高のままであったと考えられる。八七年(貞享四)に三つ六分として以降、年貢率に変化がないので、『地下上申』の時点も三つ六分高としておいた。表7の示すところは、①七つ三分高から五つ成高への推移においては、指数で八七へと減少しているものの、二一年(元和七)の有利な替地によって、減少の度合いが少ないこと、②四つ成高への推移においては、村々の疲弊の余波が及んでいるのか、やや減少していること、③三つ五分高への推移においては、五つ成高の時点のレベルに回復していること、④三つ六分高への推移においては、他の村はさほど変化がないが、河内村(来巻村も含む)と豊井村の伸びが著しく、開作によるものと想定されること、⑤七つ三分高から三つ六分高までは、およそ一二〇年間の推移であるが、高は一・九倍となっているものの、想定年貢指数は平均で九四となっていること、などである。
表7 下松藩(徳山藩)領村々の石高・想定年貢指数の変遷
村 名7ツ3分高5ツ成高4ツ成高3ツ5分高3ツ6分高
石  石  石  石  石  
生野屋村1,124.6551,344.7891,629.0651,981,2361,969,4286
(100)(82)(79)(84)(86)
大藤村241.386293.70035346.021401.948402.2923
(100)(83)(79)(80)(82)
温見村343.764503.5394629.4242754.524744.1785
(100)(100)(100)(105)(107)
瀬戸村520.533647.751774.127993.822993.6542
(100)(85)(81)(92)(94)
山田村1,022.5551,329.9591,636.0301,921.8031,917,3602
(100)(89)(88)(90)(92)
河内村2,292.8272,952.1163,595.5774,236.3704,389.5349
(100)(88)(86)(89)(94)
豊井村2,187.6492,698.2863,121.3553,838.8534,381.4562
(100)(84)(78)(84)(99)
7,733.3699,770.140711,731,59914,128.55614,797.476
(100)(87)(83)(88)(94)
 括弧内は、7ツ3分高の想定年貢額を100とした場合のそれぞれの想定年貢額の指数。この指数の出し方は、表4と同じ。
 3ツ6分高のみ『地下上申』を出典とした。『地下上申』は、元文年間(1736~40)のもの。
 『地下上申』の河内村の項は、分村した来巻村の高を合算した。