本藩領の初期の徴租法は、「御国中御所務の法、先年は古来よりの大法の通、至
レ秋毛上(けじょう)見分の上、免定相済御所務調来候」(『山口県史料』所収「御検見被仰付様の次第覚」)といわれるように検見(けみ)、つまり秋に稲の出来を見てその年の年貢額を決める徴租法であった。一六四三年(寛永二十)に春定(はるさだめ)といわれる徴租法が採用され、以後幕末まで春定が継続して行われた。春定とは、「百姓の為
レ体(ていたらく)、田地の厚薄石掛り、田のこやし下草のしむけ水かかり、年々の毛上(けじょう)出来見合」(同上所収寛文二年「春定并検見の事」)せたうえで、春に当年の年貢率を決定する徴租法である。寛永検地以降五つ成の徴租の目処(めど)があったが、実態は五つ成より少し低く免(めん)(租率)が設定され、「四つ何歩何朱」という形で徐々に固定化したとみられる。貞享検地以降は、四つに固定化した。春にすでにその年の年貢額が決まっているのであるが、洪水・旱損・虫害等によって、とてもその額を納められないと判断される場合には、検見を願い出ることができた。検見は、願い出た百姓に対して行い、その百姓の持田全部(出来の悪い田のみというわけにはいかない)が検見の対象となった。つまり、この徴租法は、
― 検見請 ― 納所
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春定 ――― 春請 ― 納所
のごとく、春定と検見とがシステム化した徴租法であり、基本的徴租法を春定とすれば、検見はそれを補完する徴租法で、ほぼ減免法とみてよい。
文書でいえば、春定は春(三月・四月が多い)に作成される各村の「春定一紙」(その年のその村の年貢予定額が記載される)に載せられ、秋に至る間に検見があれば、冬に作成される各村の「皆済(かいさい)一紙」(その村の実際に完納された年貢額が記載される)で年貢額の修正(「検見下り米」を差し引く)が行われる。もちろん検見がなければ、春定のままが「皆済一紙」に載せられる。「春定一紙」と「皆済一紙」は、検見による年貢額修正の部分を除くと、ほとんど同内容なので、便宜化の方向をとり、別々に作成されることがなくなった。「春定皆済一紙」といって、同じ紙に修正がある場合も書き込む方式になる(徴租法に関する叙述は、田中誠二「萩藩検見考序説」『山口県地方史研究』五六号)。