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末武下村の春定皆済一紙

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 現下松市域の近世の早い時期の年貢関係史料は、残念ながら現存しないが、幕末期のものがあるので、それを紹介しよう。一八四四年(天保十五)三月の末武下村(本藩領)の「春定皆済一紙」(毛利家文庫)である。徴租のあり方は貞享検地以来基本的には変わっていないので、おおよその概念を得るには充分である。
    都濃郡末武下村御蔵入田畠御物成御米銀春定御皆済一紙
   合天保拾五年分
  田数百五拾壱町七反弐拾歩
  一弐千六百七拾七石六斗弐升六合 田方
  畠数拾六町三畝七歩
  一百三拾三石六斗九升七合    畠方
  浦屋敷数弐町弐畝弐歩
  一五拾六石五斗七升四合     浦石
  浜数三町五反九畝三歩
  一百五石弐斗          浜石
  一弐拾六石七斗七升弐合     海上石
  一壱石七斗七升三合
    内七斗七升壱合 鉄炮石
     壱石弐合   川役石
  田畠浦屋敷数百七拾三町三反五畝四歩
  以上三千壱石六斗四升弐合    惣高
    内
  (中略--永否・高除などの項目)
  以上八拾四石弐斗五升七合    諸引方
  (中略--諸引方の田方畠方浜方の別)
  残弐千九百拾七石三斗八升五合
    内
  (中略--田方以外の現石を引く)
  田数百四拾八町七反弐畝七歩
  猶残弐千六百拾八石八斗五合
   内壱合 籾御囲蔵建調ニ付増之
  右之物成四つ成
   千四拾七石五斗弐升弐合
 右之口米石別三升宛
   三拾壱石四斗弐升五合六勺六才
  合千七拾八石九斗四升七合六勺六才
 元五拾弐石五斗七升六合 但四割
 一米弐拾壱石三升四勺 種米利
 元三拾五石四斗五升三合 但三割
 一同拾石六斗三升五合九勺 作飯米利
  并千百拾石六斗壱升三合九勺六才 定納辻
   銀子方
 畠高百弐拾五石弐斗六升九合
 一銀壱貫弐百五拾弐匁六分九厘 畠銀
    但石貫(こっかん)ニシテ(して)
 高壱石七斗七升三合
 一同拾七匁七分三厘     鉄炮・川役銀
    但石貫ニシテ
 高五拾六石五斗七升四合
 一同五百六拾五匁七分四厘  浦屋敷銀
    但石貫ニシテ
  高百壱石五斗七升八合
  一同壱貫拾五匁七分八厘   塩浜銀
     但、石貫ニシテ
  高拾三石三斗八升六合
  一同百三拾三匁八分六厘   海上役銀
     但石貫ニシテ
  現高弐千七百四拾四石七升四合
  一同六百三匁六分九厘六毛  浮役銀
     但石別弐分弐厘宛
  屋敷九拾壱軒七歩五朱
  一同百九拾弐匁六分七厘五毛 門役銀
     但軒別弐匁壱分宛
  酒屋三軒
  一同五貫弐拾目   酒場和市違銀
  一同三拾目     濁り酒場銀
  一同三拾五匁    笠戸釣役銀
  一同拾七匁三分   山立銀
   合八貫八百八拾四匁四分七厘壱毛 定納辻
    内
   (中略--上納時期が記載されている)
    浮役方
  畠高百弐拾五石弐斗六升九合
  一大豆弐石五斗五合三勺八才  土貢
    但高壱石ニ付大豆弐升宛之当を以上納仕、定和市銀
    百目ニ付四石替之代銀被立下候事
  屋敷九拾壱軒七歩五朱
  一蕨縄九束壱房七歩五朱
    但軒別壱房宛、代銀を以被召上候時は、銀六分宛
  寺敷御除高壱石六斗壱升壱合
  一渋紙八歩五味五払
    但高弐石ニ付壱枚宛、同断銀三匁五分宛
  高右ニ同
  一細引八歩五味五払
    但同断壱本宛、同断銀六分宛
   以上
  右、都濃郡末武下村御蔵入天保拾五年分御物成御米銀諸
  浮役方共ニ、御定帳之辻を以先勘引合、春定御皆済一紙
  無相違調上申処如
   天保拾五    庄屋
     辰三月    堀藤十郎(印)
       桂小三郎殿

 右の数値は、この時期に作成された『風土注進案』の末武下村の記載内容とまったく一致する。このころの末武村は、すでに末武上村(二六三一石余)・末武中村(二二三七石余)・末武下村(三〇〇一石余)・平田開作村(八〇八石余)に分村している。ただし、笠戸島は、なお末武下村に含まれている。
 右の一紙の構成は、米方(米で収納する部分)・銀子方(銀で収納する部分)・浮役方(現物で収納する部分)の三部分からなる。米方のところでは、田方・畠方・浦石(浦屋敷石)・浜石(塩浜石)・海上石・鉄砲石・川役石の石高が掲げられ、これらを合算した惣高(村高)が得られる。そこから永否(えいぶ)(荒廃地)・地損(道などになった地)・庄屋畔頭給・寺敷(正福寺の一石六斗一升一合が高除となっている)などの諸引方八四石余を差し引いて現石を出す。諸引方は、課税されない部分である。ついで、畠方・浦石・浜石・海上石・鉄砲石・川役石の現石を差し引く。これらは、田方と違って、石貫銀といって銀で収納するから、銀子方の部分へ入るのである。こうして得た田方現石に、春定の年貢率〇・四を乗じて物成を算出する。貞享検地以来、この〇・四は不変である(石高の部分は、途中宝暦検地や新聞・永否などで変動している)。もし検見があった場合は、春請高(春定のままの〇・四を乗ずる)と検見請高(異なった計算式による)に分離し、検見による物成減(「検見下り米」)を差し引いて物成を出す。物成に対して、三パーセントの雑税がつく。これを口米(くちまい)といい、年貢収納手伝役人の雑給や鼠くいの補塡などにあてるという名目であった。種米利・作飯米利は、もともと稲作用種籾の貸付け、田植など耕作の飯米貸付という勧農的要素を含んだものであったが、徐々に元米を回収せず利米のみを徴収する、田方にかかる高利の付加税化した。以上の田方物成・口米・種米利・作飯米利の四者を合算したのが并米(びょうまい)であり、米方の合計になる。
 この米を収納するさいは、納桝(土貢(どこう)桝)という通常の通用桝(払(はらい)桝)よりも大きな桝を用い、特殊な計り方(杉形突分計(すぎなりつきわけばか)り)をした。そのため、通用桝に比して一割余計に収納(この部分を延米(のべまい)という)した。
 銀子方では、まず畠銀がある。畠銀は、畠方現石(諸引方を差し引いたもの)に対してかかる畠租であり、高一石について銀一〇匁を徴収する。鉄砲・川役銀は、鉄砲石・川役石一石につき銀一〇匁を徴収する、鉄砲猟・河川漁に対する課税である。河内村の元和打渡帳にみえる「川役」は、すでに高一石に銀一〇匁の計算となっているので、慶長検地以来のことと考えられる。浦屋敷銀は、浦屋敷石一石について銀一〇匁を徴収する、漁民屋敷に対する課税であろうが(百姓屋敷は畠高に含まれている)、末武下村の浦屋敷とは、下松西市を指すから、それは市屋敷ともいってよい。塩浜銀・海上役銀は、塩浜石・海上石にかかる右と同率の塩業・漁業に対する課税である。豊井村の元和打渡帳でも、浦屋敷立銀・浦立銀(海上役銀につながるものと考えられる)・塩浜立銀が、同様に高一石=銀一〇匁ですでに現れている。浮役銀は、元来馬の飼料で、草・藁(わら)・粭(すくも)(ぬかのこと)代銀といわれ、田方と畠方の現高一石に銀二分二厘がかかる。門役銀は、本百姓の軒別にかけられる課税で、領主台所用の薪を現物徴収したのに起源するといわれる(石川卓美『防長歴史用語辞典』)。本軒一戸につき銀二匁一分、半軒百姓はその半分、四半軒百姓はその四分の一を徴収し、門男(もうど)百姓からは徴収しなかった。酒場和市(わし)違銀・渇(にご)り酒場銀は、酒造にかかる運上銀である。山立銀は、百姓所持林に対する課税である。
 浮役方は、現物徴収の部である。大豆土貢は、石(こく)大豆とも呼ばれ、馬の飼料の大豆を畠方現高一石につき二升現物徴収し、その代わり四石ごとに銀一〇〇匁の代銀を支給した。蕨縄(わらびなわ)は、軒別一房ずつ課税し、このころには代銀納も可能になっている。蕨縄は、わらびの根茎から澱粉をとった後の繊維でなって作る縄であり、水に強いために船で多く使われた。渋紙・細引は、寺社敷の除高(当村では正福寺の一石六斗一升一合で、他の税はかからない)に対して課税される現物貢租で、代銀納も可能となっている。