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郡村費

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 右の史料に現われない百姓の負担がまだある。まず、并米(びょうまい)一石当たり一斗の延米(のべまい)(収納桝が大きいのと特殊な計り方とによって自動的に徴収)で、このうち三升は藩庫へ、七升は郡配当米(郡村費)に回される。畠出米といって、畠方現高一石につき二升の畠租の延米に当たるものが徴収され、これも郡配当米に回される。郡配当米は郡費(宰判の費用)と弥延米(やのべまい)(村費)に回される。郡村費は、これでは不足し、諸種の小貫(こつなぎ)が徴収される。右の史料と同時代の『注進案』の末武下村の小貫の項に、
  一小貫之事
   土貢米七升弐合 但天保十四卯ノ秋石当リ現高壱石ニ付払ニして七升九合弐勺
    内
    三升五合      地下御馳走米
    壱升五合三勺六才八朱五味九払 足役抨(あしやくならし)
    壱升壱合五勺四朱三味七払   地下定法
    壱升七合三勺弐才七朱四払   勘場小貫其外臨時

とある。現高一石につき、全体で払桝にして七升九合二勺小貫がかかるという。土貢桝(納桝七升二合)の一・一倍が払桝での数値(七升九合二勺)である。この時点の末武下村の現高は、惣高から諸引方を差し引いた二九一七石三斗八升五合だから、ここでの小貫は払桝で実に二三一石五升六合八勺九才にものぼる。地下馳走米は、藩財政の窮乏のために、本来的な貢租以外に徴収した税で、近世中期頃から課税が慢性化した。地下馳走米は、いわゆる小貫とは、性格を異にする。足役抨(あしやくならし)は、人馬送り役等の夫役関係経費。「地下定法」とは、地下定法小貫で、弥延米では不足する村費を補うために徴収される小貫が定法化したものである。元禄期ごろ(一六八八~一七〇三)の例では、現高一石に銀三分であった(「大谷家文書」)が、ここでは現高一石に一升一合五勺余となっている。「勘場小貫其外臨時」は、勘場(かんば)(代官所を指すから宰判費)小貫ほか諸種の小貫を含む。
 『注進案』に載す同村の「物産之事」の項目によると、米が二一七六石余、「悪米粃(しいな)」が二八〇石余となっている。一方同村の田方現高は二六一八石余であるから、宝暦検地後八〇年たっても、米の生産額が石高に追いついていない(田方綿作二町二反には米を作っていないが)ことになる。貞享検地の項で、石高が生産力をはるかに超えたものであることを指摘したが、宝暦検地の石高についても同様のことが推測できるのではなかろうか。并米一一一〇石余に延米を加え、小貫の二三一石余を合わすと一四五二石余となり、この数値は、田方現高の五五・五パーセント、物産の項の米二一七六石余の六六・七パーセントとなる。農民の負担は、相当過重なものであったことが窺い得よう。