徳山藩の検見の実態を、元禄期(一六八八~一七〇三)の「御蔵本日記」(徳山毛利家文庫)を通してみてみよう。元禄五年八月十六日の条に、
一坂田三左衛門(代官)申出、河内村高弐千五百五拾石余之内、五拾六石弐斗余干損虫喰田、拾九石七斗余無主田、右弐筆御検見被二仰付一、残所かま(鎌)留御指免被レ下候様ニと願出候、木工殿(当職粟屋)へ相伺候処ニ、願之通可二申付一由被レ仰ニ付、其段三左衛門方へ申達候事、
とある。蔵本は政務の中核をなす役所で、時々国元加判役も出座しての「寄合」がもたれることがあるが、通常は右の記事のように、諸役人(代官・町奉行等々)の提起に当職が決裁を下して政務を進めていく。右の記事は、代官坂田を通して、河内村から検見の願出があり、当職の許可が出た。これは早・中田に関するものと考えられ、早・中田のうち五六石余が干損虫損を原因とした検見請、一九石余が無主田(所持者のいない田で、村人に耕作割当をする場合が多い)であるための検見請であり、他の早・中田は春定どおり(高に対して三ツ六分の年貢)の春請にしたいというのである。検見請の田は、検見の済むまで鎌留(溝から二鍬分の溝刈はゆるすが、他は刈ってはならない)となり、春請の分は右の許可が出次第刈り取ってよい。元禄元年十一月七日の条では、「河内村晩田高七十五石七斗弐升五合之御検見、弐つ七歩九朱余、今損六石壱斗弐升七合七勺五才」とある。河内村の晩田(おくての稲)の七五石余が検見請となり、春請であれば三ツ六分の免(三六パーセントの年貢率)を乗じて二七石二斗六升一合の年貢となるはずである。ところが検見のために二七・九パーセント余の免にしかならず、その差額の六石一斗二升七合七勺五才が「今損」(検見による減免分)となった。
元禄七年十月六日の条では、
西豊井晩田高百九拾六石八斗七升壱合、御検見下見帳昨日指出候、然処ニ右之下見殊外(ことのほか)安ク、八朱余ニ当り申候故ニ、加様ニ下見やすく仕出候得ハ、廻しあか(上)り大分有レ之時ハ、百姓断申検見落付兼申候、毛上(けじょう)悪敷右之通候哉、断之ためやすく仕出候ハヽ、了簡今少詮議可レ被レ仕候由、云々、
とある。西豊井村の晩田の一九六石八斗七升一合が検見請となって、下見帳(村の側の申告)が提出された。ところが下見が大変安く見積ってあり、免にして八パーセント余にしかならない。196.871×(0.36-0.08)=55.12388と、五五石余の減免になる見積りを提出しているのである。藩側では、こんなに下見を安く出したのでは、上見(検見役人による査定)による上りが莫大に出て(例刈による倍率が全部の下見にかかる)、そうすれば百姓側も納得せず、検見がおちつきかねるだろう。「毛上」(稲の出来)がほんとうに悪いのか、それとも藩側に余計減免させようとしてこのようなことをしているのか、もう少し調査してみようという。庄屋の言い分では、出来が悪く、ありのままを付け出したという。十月八日の条では、検見役人の報告によると、「一組廻し候処、下見壱石ニ付壱石九升上り仕候、太躰(たいてい)毛上よりハ下見やすく仕出候」と、一組(畔頭単位と考えられる)の例刈をしたところ、一・〇九倍の査定となっており、これは大した上りではない。しかし、「今一組ハ壱石五六斗上りも可仕様ニ相見へ申候」と、もう一組は一・五倍ないし一・六倍にもなりそうなので、下見をやり直させた方がよいか、それともこのまま上見をやる方がよいか、と当職に問い合わせている。このように検見の上見と下見の関係には、領主と百姓の駆引きが直接に表現されている。
元禄二年七月六日の条に、「十分一之御検見等之儀も去年被二仰出一」とあり、同十月十六日の条に、河内村「十歩壱分高」四五石余とあるなどから考えて、藩側では元禄元年ごろから検見請高を田方高の一〇分の一以内に限定する政策に出たことが知られる。また元禄十一年八月二十五日の条では、西豊井村の検見願に対し、「当年之毛上故(ゆえ)、御検見不レ被二仰付一通申渡候」と、豊年なので検見は不許可とした。そこで村ではしかたなく、「不足所地下かつき」にすることにしている。被(かずき)とは、かぶらせること、押しつけること、おわせることを意味するから、本来なら検見で減免になるはずの分を、村全体で贖った。小貫から出費している記事もある。この二例から、領主側は検見を嫌っており、減免につながる検見を限定ないし否定したがっていたことを知りうる。
検見の種類については、元禄九年八月十四日の条に、ある村からの願出の記事がある。
今年日照ニ付干損田有之、致二迷惑一候間、抜御検見被二仰付一候様ニ御断出候へ共、取上け不レ申候、一村切ニ御検見可レ被二仰付一候由申聞せ処候、又々下札切ニ御検見被二仰付一被レ下候様ニ願出申候、
この記事から、村の側では抜検見--おそらく出来の悪い田のみを対象にする検見--を願っているが、代官はそれを取り上げず、逆に一村切の検見(惣検見で、春請を望んでいる百姓まで検見に巻き込んでしまう)をすると威している。そこで村の側から「下札切(さげふだぎり)」の検見を願うことになった。「下札切」検見とは、検見請の百姓のみを対象とする検見で、「下札」限り、つまりその百姓の所持田地全部が対象となる検見である。抜検見は、百姓の好むところであり、惣検見は、一村全部が不出来でない限り百姓がいやがる検見である。この二種類の検見は、実際にはほとんど行われず、実際に行われたのは、「下札切」検見であったと考える。そして同年八月二十四日の条に、「拾歩一下札切御検見」とあるように、元禄期からの検見高は、田方高の一〇分の一を超えないという限定も加わった。もちろん、「拾歩一」検見という限定は、大凶作年には除外される。