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本藩領の農政

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 本藩領の地方(じかた)(農村)の支配は、当職-郡奉行-代官-手子という系列で行われた。郡奉行は、廃止された時期もあったが、一人ないし二人役で、地方行政を統轄する役職であり、代官を指揮する民政官である。代官(所務代とも)は、その所轄区域の宰判(さいばん)の地方支配万般を担当し、直接農民に対峙する役職であった。代官は、春・秋・冬の三季に在出(ざいで)(出郡)し、勘場(かんば)(代官所)にいて担当宰判の行政を行った。
 地方(じかた)とは、町方(まちかた)と対比され、農村をさすとともに、農政をも意味する。藩法(『山口県史料』所収)を概観してみると、農政展開の端諸は、一六四二・四三年(寛永十九・二十)ごろである。少し前の島原の乱や寛永末年の全国的飢饉を契機に、領主の眼が下に向けられはじめる。幕府の主導で農政が取りあげられ、幕府の権威を背景に諸藩で改革が行われる趨勢にあった。萩藩でも、ややまとまった農政関係法令が出され、とりわけ四三年の春定箇条は、検見から春定への徴租法の転換を示して注目される。一六四六年(正保三)には、二歩減(家臣の知行地の二割を藩が預かる財政改革)の箇条を含む正保制法が出されている。そして、何といっても農政の展開を明示しているのは、一六六〇年(万治三)の万治制法を中心に、承応から寛文期(一六五二~七二)の農政関連法令である。その方向を概括すれば、年貢が多く取れさえすればよい体制から、長い眼でみて安定的に取れる体制へということであり、給人(知行地を持つ家臣)が知行地に対して諸権限を行使し、支配体制が給人-知行地、藩-蔵入地と二重になっていた体制から、給人の裁判権・年貢率決定権を限定し、知行地の一部を預かること(藩財政の規模が拡大する)も可能とし、藩が直接農民に対峙する体制へということである。
 右のことを可能にするには、農政の担い手としての郡奉行・代官、なかんずく代官の役割が重大であった。そのため農政関連法令では、代官の役割・心得が詳細に規定されている。万治制法の「郡中制法条々」の中で、次のように九カ条にもわたって教示しているのはその代表例である。
一郡奉行并代官共宜相守
 右、諸郡ニ数人の代官を置事、一ハ国民撫育のため、二ニハ田畠修補に不怠、其所不荒様ニ仕事、是国務の基たり、専可相慎事、三ニハ百姓農業を不勤、徒(いたずら)ニ有之ものにハ其所作を教へ、其道を弁(わきまへ)知様に才覚有之て、其時々を不忘様ニすへし、四ニハ百姓の驕(おごり)を押へ、不入費(ついえ)をせさるやうに可申付、(以下九まであるが省略)
 ここには、覆いがたい愚民観が露呈しているが、農政の担い手として郡奉行・代官の役割が重視されていることを確認すれば足りる。
 右のことを念頭に置いて、当該期の都濃宰判の代官のあり方を、代官から当職への伺書を中心にみてみよう。一六五九年(万治二)十一月二十四日の都濃代官井上三右衛門から郡奉行を通して当職榎本遠江に提出した伺書(この伺書の各箇条の右肩には、当職の判断が書かれている)がある。それによれば、串浜(櫛ケ浜)から笠戸への入百姓が一〇人おり、串浜の浦石五石八斗一升をつけ、さらに銀子一貫三一〇匁を貸与したが、六人が帰村、二人が死亡し、二人のみ笠戸に残っているという状況で、処置を伺っている。これに対し、浦石は串浜へ戻し、借銀は嫡子以外の次男三男や女子を売って(人身売買は禁止されているが、同じ村内なら許されており、村外へは年季奉公に出す)払うが、まだ幼少で売れないから五年間待つという処置になった。藩が作って与えた一〇軒の家(新百姓への優遇策と考えられる)のうち八軒が空き家になったので、笠戸浦の百姓の次男たちを二人か三人新百姓として入れるつもりなので、彼らに一軒宛与え、残る空き家は売り払いたい、という代官の提案は許可されている。百姓経営数の維持と拡大は、代官の重要任務であった。
 また、「花岡八幡山」に五年前から新開畠四斗があって、前代官のとき伺って、物成を「已来(いらい)八幡御造営」に使うということになった。しかし、このままでは八幡領になってしまうので、物成を藩が取ってはどうかという代官の提案に、八幡社領になったという証文がないなら、来年から物成を藩が取るという当職の判断が下されている。前代官が、「都濃郡才判(さいばん)所諸村百姓惣中米」九〇石余を、去年の春から三割の利子で村々へ貸し付け、利子二七石余あるのを四割の利子でまた今年の春貸し付けた。このように毎年貸したら大量のことになるので、去年今年の分を百姓へ返したらどうかと思う。もし貸すとしても二割か一割五分の低利で貸したい、という伺いに、当職の判断は、「内証物之事」(代官の裁量でやっていること)なので、藩当局は関知しない、百姓のためになるよう処置せよ、というものであった。代官にある程度の裁量権を与え、工夫と才覚を引き出そうとする側面がみられる。
一六六〇年(万治三)二月二十二日の都濃代官三戸五兵衛(右にあげた井上三右衛門の相役)の伺書では、前年の大水によって出来た都濃郡の田高六九石余の川成(地床が川になって荒れた地)の再開発が問題となっている。同年三月十一日の代官井上の伺書では、「下松之橋」(玉鶴川にかかる橋と考えられる)のかけ直しについて、七間の「築出(つきだし)」(土台)の部分を作り、橋の部分は二間とする提案をして許可されている。一六五一年(慶安四)・五五年(明暦元)に続いてのかけ直しなので、「築出」部分を多くしたのではないかと思われる。大工・木挽(こびき)・鍛冶については、「水役」(職人役)とし、不足分についてのみ手間賃を払うとしており、宰判内の職人を徴発したことが分かる。香力の塩浜の唐樋(排水設備)修築についても同様に職人役とし、必要な板については、木の伐採を認めている。一六六二年(寛文二)八月の代官渡辺五兵衛の報告によると、鹿野村と末武村の弥延米(やのべまい)(村費充当)の残余分で農民に還元される分の一部を毎年留保し、これを百姓に年利三割で貸し付けて利殖し、「痛之御百姓を救立」る資金とした。同様の趣旨で、田方一石につき麦五合を毎年集めておき、これは無利子で貸し付けることとした。鹿野村では少し早くはじめたので、米七〇石余、麦六一石、末武村では米五〇石六斗、麦三五石となっている。このやり方で貯えると、六六年(寛文六)の末武村の元米は一七六石九斗四升八合、麦は一七五石になる予定であるという。これは、代官裁量による、百姓負担の救恤仕組である。これが軌道に乗れば、代官の手柄となる。こうした才覚こそが、代官に求められたのであろう。
 当該期の郡濃代官は、二人役である。他に関連した役職に、花岡御茶屋番、深浦舟究がある。例えば、一六六一年(寛文元)四月十二日、彼らにも代官と同様、諸郡麦作と当作付見分の者を出郡させる旨の廻文がまわっている。御茶屋番は、吉田・山中・三田尻・高森と並んで花岡にも置かれており、御茶屋(藩の公館で、藩主・幕府役人・大名の宿泊に用いた)の管理に当たった。深浦舟究は、笠戸湾が海上交通上の要衝であったために置かれたもので、船舶の取締りを担当した。宰判内の海陸交通の統轄は代官が行った(支藩領は別)とみられるので、右の両役は代官と連絡をとりあって仕事をすすめたと考えられる(以上、この項の出典は、毛利家文庫「大記録」)。