ビューア該当ページ

徳山藩の地方支配組織

311 ~ 314 / 1124ページ
徳山藩の地方支配(農村支配)は、当職-郡代-代官-手子の系列で行われた。郡代以下は、地方(じかた)役人と呼ばれている。当職は、「在所仕置役」と呼ばれ、つぎのような辞令が残っている(「粟屋家文書」)。
其方儀在所仕置役申付候間、木工如相勤候、入念所勤尤(もっとも)候、追々可申達、猶奈古屋玄蕃可申候、謹言、
 (元禄七年)
  五月十三日 元次(花押)
    粟屋助之進とのへ
 在所とは、江戸に対して国元を指し、仕置とは、統治のことである。当職は、桂・神村・粟屋・奈古屋・中川・福間といった家老家が勤めた。桂民部の帰参(一度暇(いとま)が出されていた)を許した一六七六年(延宝四)に、筆頭家老の桂民部・神村将監の二人を江戸に呼んで、「御在所御仕置等並(ならびに)御家来万端之儀」(徳山毛利家文庫「記録所日記」)を交替で勤めるよう命じている。この年は、後述するように地方役人のあり方にも変化が認められる。通常は、
一(当職粟屋)木工殿御出并諸御役人例時罷出候事、
と「御蔵本日記」に記されるように、蔵本(蔵元)に当職が出座し、諸役人(郡代・寺社奉行・町奉行・代官等々)の提起する諸案件に決裁を与えていく。そしてときおり、
一木工殿御出并(奈古屋)玄蕃殿(福間)彦兵へ殿御出、御寄合有之事、
と二名の加判役(これも家老家が勤める)を加えた寄合がもたれる。
 地方役人の筆頭である郡代については、
  郡代役之事
一延宝五丁巳八月郡代役始一本四年五月三日桜井甚大夫隆治、又六月廿共後百五十余年欠職之処元禄四年辛未三月朔日廃止天保九年戊戌十二月十八日復旧桜井新左衛門雄聯、
とする「徳山藩史」の説がある。しかし、「記録所日記」(徳山藩江戸藩邸の記録)一六七六年(延宝四)七月十八日の条に、桜井甚大夫の「大坂役」(米、紙の売却、江戸への送金、借銀などを担当する役と考えられる)を免じ、「打続乍(ながら)苦労、御在所地下見合役被仰付候、今度桂民部神村将監御領分御預ケ被成、将監儀ハ追付(おっつけ)御在所へ御下(おくだし)、御役相勤儀候間、弥(いよいよ)得差図相勤之旨」を命ずる記事がある。藩主が帰国せず、桂と神村に国元の政治を任せ、やがて神村を帰国させて当職とするので、その差図をうけて役を勤めよという。この「御在所地下見合役(じげみあわせやく)」が、郡代役を指すと考えられるので、桜井の郡代役のはじめは、七六年(延宝四)七月十八日であり、すくなくとも九一年(元禄四)三月一日の中絶までは郡代役はあったと考えられる。ところで、六八年(寛文八)五月の地方・町方への「条々」(「徳山藩史」)に「郡奉行・所務代・町奉行」とあって、すでに郡奉行があったこと、九四年(元禄七)七月十八日(「御蔵本日記」)に、近藤仁右衛門に「郡代兼」役を命じていることなどから、類似の役は前後にもあったことが知られる。郡代は、代官を指揮し、検見衆の派遣・廻船の支配をするなど、地方役人の筆頭として重要な役職であり、「郡代所」がその役所であった。
 代官(所務代)の職は、早くからあったが、やはり一六七六年(延宝四)に改変されている。同年七月十三日の記事(「記録所日記」)に、
御領内御所務代谷左兵衛鷹巣五右衛門両人ニ被仰付、須广(須万)村除之、残所奈古・大井共御知行高東西半ニ分、右両人仕配被仰付候、(中略)奈古・大井相添、徳山より西方谷左兵衛ニ支配被申付然之由申遣候、
とある。つまり、徳山藩領を徳山を境に東方と西方の半分に分け、一人ずつ代官を置くことにしたのである。これに伴って、奈古・大井にも置かれていた代官が廃止、「所務取立役」(年貢収納役)に格下げとなり、西方代官の差図をうけることになった。須万村には、依然として代官が置かれ続けているが、これは須万村が紙産地であり、徳山藩財政のドル箱であったためで、紙年貢の収納を主な職掌とした特殊な代官であったと考えられる。
 東方と西方に属する村々を、八八年(元禄元)十一月二十一日の記事(「御蔵本日記」、以下元禄期の記事は同史料による)によって確認しておきたい。まず東方は、徳山村・大嶋・栗屋村・西豊井村・東豊井村・嶋田村・河内村・山田村・来巻村・生野屋村・瀬戸村・譲羽村・温見村・大藤谷村・須万村・粭嶋・野嶋であり、下松町方の耕地も含まれる。現下松市域の徳山藩領村々は、全部この東方に含まれたことになる。なお、大藤谷村・瀬戸村・温見村・譲羽村を、徳山藩では奥四カ村と呼んでいた。西方は、富田村・川曲村・大向村・大道理村・四熊村・福川村・弥地(夜市)村・戸田村・富海村・大津馬嶋・大井村・奈古村などであった。九一年(元禄四)から、代官は一人役となった(須万代官は存置)。代官の下に手子役が二人(須万代官には一人)つけられている。
 村役人としては、村ごとに庄屋一人、畔頭(くろがしら)数名が置かれた。現下松市域の村々のそれを「記録類纂」から拾ってみると、
  一西豊井村三組    庄屋一人          能行組 土井組 柳組
             畔頭三人        一東豊井村二組    庄屋一人
             畔頭二人                   畔頭三人
    寺迫組 鯉ケ浜組               上組 中組 下組
  一河内保村四組    庄屋一人        一瀬戸村四組     庄屋一人
                                      (四人脱カ)
             畔頭四人                   畔頭
                                     (高垣カ)
    大河内組 久保市組 出合組 吉原組      鳴組 一ノ瀬組 後山組□掛組
  一来巻村二組     庄屋一人        一温見村三組     庄屋一人
             畔頭二人                   畔頭三人
    東組 西組                  道谷組 上組 下組
  一山田村三組     庄屋一人        一大藤谷村二組    庄屋一人
             畔頭三人                   畔頭二人
    上組 郷組 中組               上組 下組
  一生野屋村三組    庄屋一人

のようになる。各村には、一名の庄屋と、二~四組の畔頭組が置かれていたのである。稀に兼帯庄屋があり、九〇年(元禄三)四月十八日の記事によると、瀬戸村庄屋が譲羽村の庄屋を兼帯して難儀し、兼帯免除を願い出ている。結局、譲羽村畔頭の孫右衛門が庄屋役に任ぜられた。また、同年正月十五日の記事では、藩領内の庄屋三二人が藩主への年頭目見(めみえ)に呼ばれている。例年の行事と考えられる。