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欠落・潰れと無主田

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 元禄期(一六八八年~一七〇三年)の「御蔵本日記」を読んでいくと、無主田(所持者のいない田)の記事がたくさん出てくる。例えば、元禄二年三月一日の条に、
一坂田三左衛門(代官)窺(うかがい)、河内村無主田高百十四石四斗弐升三合之内、去年ハ七十八石五斗八升八合作人取仕候へ□(共カ)、今年ハ百十四石四斗弐升三合之内、三十六石二斗八升四合作人御座候而、残所作人無御座候故、無主田ニ罷成候通、庄や勘左衛門より申出候段、監物殿(当職粟屋)御聞届被成候事
とある。このころ河内村には、実に一一四石余もの無主田が存在し、春にその年の耕作者を募っていた。前年はそのうち七八石余の耕作希望者が出たが、当年は三六石余しかないという。残りの分には「作人」、つまり耕作希望者がないので、その旨了解してほしいというのである。残りの分は、「無主田有之候ハヽ、其村之惣作に可仕候」、「惣作と候て、捨作りなとに仕候ハヽ、役人見分之上、其今損ハ其村之貫(つなぎ)に被仰付、云々」(「記録類纂」)とあるように、惣作(そうさく)つまり無主田の強制割当てとなり、惣作は百姓がいやいや作るために検見請になりがちだったと考えられる。無主田、とりわけ惣作田には検見を認めざるを得なかったり、また種籾を貸し付けたり、その種米の利子を免除したりする必要もあった。
 無主田は、何が原因で出来てくるのだろうか。一つは、「走り百姓」「欠落(かけおち)百姓」、つまり主として年貢の重さに堪えきれず、耕地・屋敷を捨てて逃亡する百姓が出るためにおこる。元禄三年十二月十七日の条に、ある村の畔頭(くろがしら)(村内の部落単位ごとくらいに設けられた村役人)が逃亡した記事がある。
畔頭彦右衛門走跡、此間深野市左衛門戸蔵八郎左衛門ニ売払可仰付候、不足之所ハ組下かつき、過銀有之候ハヽ、打込銀方へ可召上之由被仰渡候事、
 この記事では、十二月に未進(みしん)(年貢未納分)を残して逃亡したので、未進分をこの百姓の耕地を売却することで払わせようとしている。しかし、売却代銀でも不足する場合は、この畔頭組の百姓たちに負担させる。また売却代銀で未進を払ってなお余る場合は、打込銀方(同じような町方でのケースでも同様の処置がとられる)へプールしておく。元禄九年三月四日の条では、ある村の新右衛門という百姓が家族四人で、三月二日の晩「欠落」した。未進や借金はなかった。「家九尺四方掘立、田弐畝拾歩畠弐畝作仕候、小百姓にて如何様飢候而右之通にて可之由申出候」と、たった九尺四方の掘立小屋に住み、僅かの耕地を耕す小百姓で、年貢は払ったが、三月には飢えて逃亡したのである。こうした逃亡百姓の跡地は、本藩の法令では(「二十八冊御書付」承応三年(一六五四)七月一日)、「配地(くばりち)」(他の百姓に配る)をして耕作させ、未進等があれば売却する。逃亡した百姓が帰って来れば、前者は無償で返させ、後者は買い取った耕地の半分を返させる(その代わりに代銀の半分を出させ、残り半分の代銀は五年かけて払わせる)。「配地」をしても恒常的な耕作者がいず、売却に付しても買手がいない場合、ここで問題にしている無主田が生ずる。
 もう一つの無主田の生ずる原因は、「倒れ百姓」「潰(つぶ)れ百姓」である。元禄八年四月七日の条では、ある村で、
たおれ百姓未進有之者とも之内、売倒之人柄地下承合書付差出候通ニ而、玄蕃殿(当職奈古屋)入御覧候、右之人数之内壱村ニ而三四人程売つふし、残ル者ともハ当作付可申付候、未進米銀之儀ハ、先其篇ニて差置可申候
とある。「倒れ百姓」とは、年貢が払えず、いわば倒産した百姓である。領主にとって未進百姓は忌むべき存在であり、見せしめのために、未進百姓の内から一村で三人か四人を選んで「売倒」(「売りつぶし」とも)にするというのである。「売倒」とは、耕地を売却して年貢にあて、その百姓は村から追い出すことをいう。同年四月十二日の条では、その村の「倒百姓弐十六人之内四人」が「売倒」にされ、「追出」された。その村の百姓たちは、この四人の耕地が売却されても、未進分に不足が出、そのため「不足之所地下かつき」にされても、とても我々は払えないと断り出ている。こういうケースの場合、通常、「被(かずき)」、つまり連帯責任がかかるものと考えられていたのである。ともあれ、こうして「倒れ百姓」が出、「売倒」百姓が出た場合、売却田地を買う百姓がいたであろうか。買う百姓がいなければ、その田地は無主田となったであろう。
 無主田が広汎に存在するということは、田地を多く所持してもさほどメリットがないということを意味している。さほどメリットがないことの原因は、田方にかかる年貢が過重であることを示す。元禄直後の一七〇八年(宝永五)五月の「田畠買上直段定」(「記録類纂」)によると、
  一上畠現畝一反ニ付  代銀五百目
  一中畠現畝一反ニ付  代銀三百目
  一下畠現畝一反ニ付  代銀百五拾目
  一上田現畝一反ニ付  代銀弐百五拾目
  一中田現畝一反ニ付  代銀百五拾目
  一下田現畝一反ニ付  代銀百目

とある。つまり徳山藩が用地として田畠を買い上げる場合、田は畠のほぼ二分の一の値段だった。この我々の予想と逆の事実も、田方の年貢が過重であることを暗示している。元禄期は、一般には「民勢さし潮の如し」といわれるように、近世村落が開花し、村が活況を呈する時期とイメージされている。しかし、右にみたような、元禄期に早くも無主田が広汎に存在する事実は、それとは逆のイメージを抱かせ、農政に問題のあることを気付かせる。