Aの米建の部分は、「宝永弐年分御物成米并御貸米取立共(とも)」の米一万七五六〇石六斗五合四勺(払斗、つまり通用桝で)を「請」(収入)にしている。米建の「払」(支出)の部分は、①「同年分御家来浮米現米切米并御付中間恩米五歩米とも」八一〇五石五斗九升九合七才、②「同年分御物成米之内大坂御運送米運賃米共ニ」五一八五石一斗四合三勺、③「同断御在所御売米」九五〇石七斗二升八合八勺、④「御米銀方御用米」三三〇九石九斗一升一勺二才、⑤「同断諸村於二御蔵一鼠(ねずみ)喰米」九石三斗三升三勺となって、若干の払い過ぎとなっている。要約すれば、収入の米年貢が約一万七〇〇〇石、支出の中では約八〇〇〇石の家臣への禄米、約五〇〇〇石の大坂運送米が重要で、約三〇〇〇石の「御米銀方御用米」もある。②と③は、米建では支出だが、銀建では売却代銀として収入に入ってくるはずである。ところが、銀建部分では、収入が「同年分夏秋納銀其外御貸延銀取立共ニ」(銀納年貢が主)の「百拾(貫脱カ)五百五拾三匁五分」しかあがらず、同支出も「御家中御浮米方畠銀并切銭共ニ」の「三拾貫九百七拾七匁弐分七厘」しかあがっていない。決算が不明なのである。
つぎにBの「大坂御米銀方元禄十三辰ノ十月より同十四巳ノ九月迄請払」をみてみよう。これを表にしたのが表9である。四四〇〇石余が大坂運送米で、そのうち四一〇〇石を売却し、銀二五七貫匁余を得る。これにほぼ見合う(イ+ロ+ハ-ニ=二四八貫匁余)のが、紙による収入である。すなわち須万村紙と五カ村紙であり、後者は一六四四年(正保元)、大向村・大道理村・川曲村・四熊村・上村の五カ村に紙上納を命じたのに始まり、のち山田村・河内村・大藤谷村・来巻村・温見村・瀬戸村等にも広がった。大坂売却米代銀に匹敵するから、紙による収入は莫大である。銀支出では、江戸仕送り銀三二一貫匁余が決定的な位置を占め、いかに江戸出費が巨額であるかを示す。また、四五〇貫匁前後の借銀は、大きな額を示しつつ財政の中に構造化している。以上、不明な部分を残しながらも国元での請払と大坂での請払をあわせ考えると、当該期の徳山藩の藩財政の概略の像が結べよう。
表9 元禄13年分大坂御米銀方請払 |
米 建 | ||
請 | 4,432石650 | 元禄13年分御物成前之内御運送 |
14石0595 | 先勘残并欠米指米共ニ小請米 | |
払 | 4,155石444 | 御売米之分 |
283石1405 | 葉室様御進上米并京大坂役人御扶持方等 | |
8石125 | 後役へ引渡 | |
請払は±〇 |
銀 建 | |||
請 | 257貫481匁7分6厘 | 御売米代銀 | |
229貫559匁1分8厘 | 須万方紙代銀(此内ニ指銀有之) | イ | |
99貫 92匁9分3厘 | 五ケ村紙代銀(此内ニ指銀有之) | ロ | |
20貫520匁5分8厘 | 御売米代銀須万五ケ村紙代銀之内時々渡置候分利銀掛リ戻シ取立之分 | ハ | |
446貫100匁4分5厘 | 江戸御月並銀並御当用銀年普銀之内百貫目共ニ借銀之前 | ||
7貫376匁3分7厘 | 先勘残 | ||
請以上 1,060貫131匁2分7厘 | |||
払 | 321貫 92匁7分 | 江戸御月並銀辰ノ十月より巳ノ十月迄并御進上銀御用銀共ニ江戸御仕送り | |
56貫714匁9分6厘 | 御在所御取下シ銀 | ||
100貫974匁0分6厘 | 須万五ケ村紙指銀之分御在所御指下シ之分 | ニ | |
469貫665匁4分5厘 | 御借銀元利返済之分 | ||
11貫642匁2分7厘 | 大坂月次之小払 | ||
払以上 1,060貫89匁4分9厘 | |||
残 41匁7分8厘 |
つぎに、当該期に徳山藩がとった財政上の措置をいくつかみておこう。年貢完納前の米の流通を禁止して、年貢米確保と領主売却米値段の維持を目差した(「御蔵本日記」、以下同じ)。そのために米留(こめどめ)の役人を配置し、他領米の移入も禁じ、さらに年貢完納前に塩売り以外の商人の入村を禁じた。実例をみると、下松町の権兵衛が、「抜米」を買い取ったかどで「閉戸(へいこ)」(戸をとじて家にこもらせ、出入を禁ずる罰)のうえ罰金銭一貫文を科せられている(宝永三年(一七〇六)十月十四日条)。酒屋の蔵を点検し、「抜米」をおさえ、領内の米(それも領主の米)での酒造を強制した。こうして大坂や諸地域の米価を勘案して、「御売米直段」を公定し、領主米を有利に売却した。また、町奉行配下の下松浦究(きわめ)や徳山浦究をおき、港出入の物品に運上を課した。一七〇五年(宝永二)分下松浦運上は、銀二貫一七五匁余、磯部開作(宮洲)塩運上が銀四三匁余であった。有力町人や有力百姓に「当用銀」(当座藩が必要とする銀で、名目は借銀)を出させて、藩財政の補塡をすることも行っていた。一例だけ示すと、下松の有力町人磯部好助が、銀六〇貫匁の当用銀を出している記事(宝永三年十二月二十五日条)など。一六七七年(延宝五)から始まった藩札も、藩外に通用する正銀を藩内から吸収して、当面の資金難を糊塗する方策であった(「記録所日記」)。