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下松の開作

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 近世前期の下松の開作についてみておきたい。まず本藩領の開作については、『防長風土注進案』の平田開作村の項に、
当村名之儀は元来惣名末武ニ而御座候へ共、貞享五辰年御給主毛(毛利)虎槌様御拝地ニ而、干潟江開作御築立相成候故、則当村之地方は平田と申、御蔵入江引続之所故、平田開作と号来候事、
とあり、平田開作村は、一六八八年(貞享五=元禄元)に一門厚狭毛利虎槌(就久)が拝領して築き立てたとして以来、これが今日に至るまで通説となっている。ところが、厚狭毛利氏の「譜録」には、そのような記事はみられず、反対に一門吉敷毛利氏の「譜録」(毛利家文庫)に、
貞享四年六月廿八日、長州厚狭郡須恵村ノ干潟妻崎より藤曲際波マテノ間二百町余、防州都濃郡平田香力ニテ五十町余、併セテ二百五十町余ノ新田之地ヲ賜ルヘキ旨、当役連署之證拠物有之、毛利市正ト有之、写此度録上
とあって、毛利市正(いちのかみ)(就直)が、一六八七年(貞享四)六月二十八日に、平田香力で五〇町余の干潟を拝領した旨を記している。このように平田開作村は一門吉敷毛利氏の開作であり、一門厚狭毛利氏によるものとする「注進案」の説は誤伝である。吉敷毛利氏「譜録」には、一七〇二年「元禄十五」四月二十四日付の当職加判役連署付立が記されている。「都濃郡平田香力ニ而」「千五拾七石七升」ほか合計で四〇三〇石の開作高を掲げ、これを本知行七〇〇〇石に加えて一万一〇三〇石を毛利市正の知行高とする旨を証明している。さらに一七二一年(享保六)九月二十六日付の当職加判役連署「覚」では、吉敷毛利氏の知行高一万一〇三〇石のうち、「開作地免不足之高千拾七石七斗五升三合」が生じたので、この高を除き、残高一万一二石二斗四升七合を当面の知行高とする。「免不足之所追而熟田ニ相成次第」もとの高に返す、としている。こうした経過をへて、『防長地下上申』の末武村の項の、
  六百四拾七石八斗三升七合
  右毛 市正殿知行所之分、平田香力開作之分、

という記事へつながっていくのである。一七〇二年(元禄十五)の一〇五七石七升から一七四〇年(元文五)の六四七石八斗三升七合への減には、途中一七二一年(享保六)の「開作地免不足」の「石下(こくさげ)」記事が入るわけである。末武村の「地下上申絵図」には、海に面して「毛利市正知行所」として、開作と塩浜が描かれている。

地下上申絵図、末武村(山口県文書館蔵)

 つぎに徳山藩領の開作については、「徳山藩史」によると、近世前期には、左記の二件となる。
一元禄三年(一六九〇)庚午三月十三日磯部好助先年築立開作石盛成、田壱町七畝弐拾歩畠五反三畝
一元禄十六年(一七〇三)癸未三月廿日東豊井村宮洲開作築立、田三町四反四畝拾六歩畠弐町拾歩塩浜地拾弐町一反一畝弐拾五歩、築立主磯部好助、

 磯部好助(よしすけ)(好介、与四介とも)は、下松町の有力町人で、右の二件とも彼の築立によるものである。「御蔵本日記」によれば、一七〇二年(元禄十五)十一月、「下松磯部開作所へ」入れる砂を宮洲山から取ることを藩に願い出、宮洲山から五間あけて砂を取ってもよいとの許可を得ている。宮洲開作に関わる記事である。また、翌年十月に好助から「東豊井塩浜開作守護神トして、弁才天之堂建立」したいとの願いが出されており、宮洲開作(塩浜が中心と考えられる)の一応の完成を示すものと考えられる。この弁才天は、「地下上申絵図」にも描かれている。一七〇五年(宝永二)の記事では、塩浜の燃料の薪は、相嶋山(藩有)のものを買っており、その代銀とともに運上銀(浦究(うらぎわめ)役が出入津の物品に課税する)を支払った。九年(宝永六)九月には、右の開作の「付替」が計画され、「新川」を掘ることになって、隣の小嶋開作にも影響が及んだ。つまり小嶋開作の土手・唐樋の仕替のため、米七石五斗七升七合五勺、人力一〇一〇人役、銀一二〇匁余がかかっているのである。因みに、この米と人力の関係は、人力一人役が飯米七合五勺になっており、通常の普請飯米と同じである。
 「御蔵本日記」には、磯部好助による宮洲開作以外の記事もある。元禄七年(一六九四)三月二十日の条には、「東豊井小嶋助之允開作石からひ損、塩入当作付不相成候」とあり、小嶋開作が出てくる。小嶋開作は、二軒屋と宮洲開作との間にあったと考えられる。小嶋助之允(助之丞とも)は、下松の有力町人で、七〇〇石積の廻船も所持していた。一六九六年(元禄九)には、東豊井村の百姓虎之助・小左衛門・新八が、東豊井の塩浜開作の築き添えを願い出ている。自力で土手を築き立て、五~六反を開くと、八カ年の年貢免除という条件で、土手石垣用の石は藩から与えられた。
 西豊井には、「西豊井判屋開作之土手石垣三十間ほど損、云々」(宝永四年(一七〇七)五月九日条)という記事があるように、判屋開作が存在する。また、「下松中川原磯部弥左衛門開作往還端ニ屋敷五ケ所御座候、今年六月洪水ニ判屋開作より水越、云々」(宝永六年九月二十六日条)とあって、その近くには中川原の磯部弥左衛門開作が存在していた。
 下松の開作の中心は、右にみたようにやはり干潟を土手石垣を築き立てることによって干拓する海開作であった。