表1 馬継と手当人馬 |
正保国絵図の馬継名 | 「地下上申」の手当馬 | 「注進案」の手当人馬 |
呼坂馬継 | 15疋 | 15疋49人 |
切山ノ内甲か垰馬継 | ||
山田ノ内窪市馬継 | 10疋 | |
末武ノ内花岡馬継 | 20疋 | 20疋60人 |
久米馬継 | 5疋 | 7疋35.5人 |
久米ノ内遠石馬継 | 3疋 | |
野上馬継 | 17疋 (内5疋は地方の役馬) | |
富田新市馬継 | 10疋 | |
矢地の内福川馬継 | 14疋 | |
富海馬継 | 15疋 | |
牟礼ノ内浮野馬継 | 10疋? | 10疋 8人 |
宮市馬継 | 20疋20人 |
※ | 「切山ノ内甲か垰馬継」は「地下上申絵図」では、来巻村「甲か垰」、「御領内町方目安」では、「垰市町」である。 |
※ | 「山田ノ内窪市馬継」は、「地下上申絵図」では、河内村「窪市」、「御領内町方目安」では、同「久保市町」である。 |
※ | 「地下上申」は、享保12~宝暦3、「注進案」は天保期。「地下上申」の手当馬の項は、徳山藩頭については、寛保1「御領内町方目安」で補ってある。 |
その他の交通関係施設をあげていくと、まず本陣がある。本陣は、特権通行者の旅館であり、花岡の御茶屋、久保市町の御茶屋(原田善左衛門預り)、福川町御茶屋(福田宇右衛門預りと福田清左衛門預りの二軒)、富海本陣(吉武七左衛門)などがある。なかでも宿泊・昼休場所としては花岡・福川の場合が多く、近在では他よりも設置が良かった(『防長地下上申』、「御領内町方目安」、「御蔵本日記」)。花岡代官(本藩)から徳山藩に対し、花岡御茶屋の庭に木斛(もっこく)を植えたいので、宮洲山(豊井村)にあるのを一四、五本いただきたい旨の依頼があり、徳山藩当職が許可を与えている記事(宝永七年六月二十一日条)がある。花岡と富海には、天下送り番所があり、笠戸(本浦)には海上勤番所があった。
一里塚は、一里山と呼ばれ、現下松市域山陽道では、久保市と末武村弘石にあった。一里山は、石を築いて塚木を立て、安芸国境の小瀬川からの距離と「赤間関」(下関)からの距離を記した。久保市の一里山はそれぞれ八里と二九里、弘石のそれは一〇里と二六里であった(『防長地下上申』)。徳山藩領の一里塚について、「記録類纂」は、
古記
一慶安元年戊子十二月、御領内一里塚初テ築レ之、松五寸角長サ壱丈ニ調レ之
一慶安元年戊子十二月、御領内一里塚初テ築レ之、松五寸角長サ壱丈ニ調レ之
という記事を載せている。一六四八年(慶安元)にはじまり、塚木は松の五寸(約一五センチ)角、一丈(約三メートル)であったとしているのである(県庁旧藩記録「徳山毛利氏記録類纂」)。郡塚(郡境碑)は垰市町にあり、熊毛郡と都濃郡との境を示した(現在も石造の郡境碑がある)。
道の維持については、本藩領では盆前と暮の二度、「地下役(じげやく)ニ作り申筈(はず)」との規定であった(「二十八冊御書付」宝永三年(一七〇六)五月一日)。徳山藩では、一六九四年(元禄七)九月、幕府国目付の国廻りを前にして、垰市から富海までの領内往還道の補修に人力「一万八千弐百三拾弐人」が必要と見積っており、米一三八石七斗五合、銀六八六匁五分の費用がかかるとしている。米を延べ人足で除すと、一人七合六勺となり、井手・川除普請のさいの支給飯米七合五勺に近似しているので、飯米に宛てられたのであろう。右の人力のうち一三一三人は、「福川新道」のためとしている。因みに、新道普請について、瀬戸村から新道の願出記事があり、本藩領花岡庄屋の同意を得たうえ、「とうしかふち(藤治が淵)の上より光善寺山之下へ、夫より宮ノ下八幡之馬場」へと道を通すことにしている(「御蔵本日記」宝永六年九月四日条)。また、長崎奉行通行のさい、「垰市境より富海水落迄」の往還筋の掃除をさせている記事(同、元禄十四年(一七〇一)十月六日条)があるので、道掃除も住民に命ぜられていたことが分かる。街道松は、本藩の「郡中制法」(「万治制法」)に、「国中道筋見合、松を植可レ然所於レ有レ之ハ、其通の左右ニ植可レ申事」とあるのが初見で、枯れたり倒れたりした場合は、植継ぎを義務づけられていた。
本藩領の交通は、海陸とも代官が管轄していた。現下松市域の場合、都濃宰判の代官(花岡代官)が担当である。また支藩領の交通は、支藩が管轄しており、徳山藩の場合、代官と町奉行が担当していた。馬継(駅)での人馬の手当、天下送り等の具体的業務は、市町の目代が差配し、「天下御物送り場」役人のいるところでは、その役人が目代を監督していた。