ビューア該当ページ

交通施設と管轄

324 ~ 327 / 1124ページ
 山陽道は、「中国路」あるいは「西国路」と呼ばれていた(徳山毛利家文庫「御蔵本日記」、以下、特に断らない限り同史料による)。山陽道には馬継(駅であり、常備人馬を置いて逓送に当たっていた)が設けられ、現下松市域には、甲か垰(のち垰市)馬継、窪市(久保市)馬継、花岡馬継の三カ所があった。近くの馬継と常備人馬数をあげたのが、表1である。馬継は、何よりも特権(公的)通行のために設けられた。「上使御通、天下御荷物送、御状箱送り、其外御大名衆御国中御通の事」(「二十八冊御書付」元禄八年(一六九五)七月二十八日)と表現されるように、①幕府役人(長崎奉行・代官・諸種の上使など)の通行、②幕府関係の金銀・荷物の逓送、③同書状の逓送(②③を天下送りという)、④大名の通行、それに⑤藩主・支藩主・藩役人の通行などが主なものである。なお、下松西市(末武下村)は、本往還ではないが、天候次第で上関辺で揚陸(海路から陸路に変更)する幕府上使・大名の通行のために駅とされており、幕末には馬六疋、人足三三人が用意されていた(『防長風土注進案』)。防長両国の海の駅は、両関(上関と下関)であった。
表1 馬継と手当人馬
正保国絵図の馬継名「地下上申」の手当馬「注進案」の手当人馬
呼坂馬継15疋15疋49人
切山ノ内甲か垰馬継
山田ノ内窪市馬継10疋
末武ノ内花岡馬継20疋20疋60人
久米馬継 5疋7疋35.5人
久米ノ内遠石馬継 3疋
野上馬継
17疋
(内5疋は地方の役馬)
富田新市馬継10疋
矢地の内福川馬継14疋
富海馬継15疋
牟礼ノ内浮野馬継10疋?10疋 8人
宮市馬継20疋20人
 「切山ノ内甲か垰馬継」は「地下上申絵図」では、来巻村「甲か垰」、「御領内町方目安」では、「垰市町」である。
 「山田ノ内窪市馬継」は、「地下上申絵図」では、河内村「窪市」、「御領内町方目安」では、同「久保市町」である。
 「地下上申」は、享保12~宝暦3、「注進案」は天保期。「地下上申」の手当馬の項は、徳山藩頭については、寛保1「御領内町方目安」で補ってある。

 その他の交通関係施設をあげていくと、まず本陣がある。本陣は、特権通行者の旅館であり、花岡の御茶屋、久保市町の御茶屋(原田善左衛門預り)、福川町御茶屋(福田宇右衛門預りと福田清左衛門預りの二軒)、富海本陣(吉武七左衛門)などがある。なかでも宿泊・昼休場所としては花岡・福川の場合が多く、近在では他よりも設置が良かった(『防長地下上申』、「御領内町方目安」、「御蔵本日記」)。花岡代官(本藩)から徳山藩に対し、花岡御茶屋の庭に木斛(もっこく)を植えたいので、宮洲山(豊井村)にあるのを一四、五本いただきたい旨の依頼があり、徳山藩当職が許可を与えている記事(宝永七年六月二十一日条)がある。花岡と富海には、天下送り番所があり、笠戸(本浦)には海上勤番所があった。
 一里塚は、一里山と呼ばれ、現下松市域山陽道では、久保市と末武村弘石にあった。一里山は、石を築いて塚木を立て、安芸国境の小瀬川からの距離と「赤間関」(下関)からの距離を記した。久保市の一里山はそれぞれ八里と二九里、弘石のそれは一〇里と二六里であった(『防長地下上申』)。徳山藩領の一里塚について、「記録類纂」は、
  古記
  一慶安元年戊子十二月、御領内一里塚初テ築之、松五寸角長サ壱丈ニ調

という記事を載せている。一六四八年(慶安元)にはじまり、塚木は松の五寸(約一五センチ)角、一丈(約三メートル)であったとしているのである(県庁旧藩記録「徳山毛利氏記録類纂」)。郡塚(郡境碑)は垰市町にあり、熊毛郡と都濃郡との境を示した(現在も石造の郡境碑がある)。
 道の維持については、本藩領では盆前と暮の二度、「地下役(じげやく)ニ作り申筈(はず)」との規定であった(「二十八冊御書付」宝永三年(一七〇六)五月一日)。徳山藩では、一六九四年(元禄七)九月、幕府国目付の国廻りを前にして、垰市から富海までの領内往還道の補修に人力「一万八千弐百三拾弐人」が必要と見積っており、米一三八石七斗五合、銀六八六匁五分の費用がかかるとしている。米を延べ人足で除すと、一人七合六勺となり、井手・川除普請のさいの支給飯米七合五勺に近似しているので、飯米に宛てられたのであろう。右の人力のうち一三一三人は、「福川新道」のためとしている。因みに、新道普請について、瀬戸村から新道の願出記事があり、本藩領花岡庄屋の同意を得たうえ、「とうしかふち(藤治が淵)の上より光善寺山之下へ、夫より宮ノ下八幡之馬場」へと道を通すことにしている(「御蔵本日記」宝永六年九月四日条)。また、長崎奉行通行のさい、「垰市境より富海水落迄」の往還筋の掃除をさせている記事(同、元禄十四年(一七〇一)十月六日条)があるので、道掃除も住民に命ぜられていたことが分かる。街道松は、本藩の「郡中制法」(「万治制法」)に、「国中道筋見合、松を植可然所於之ハ、其通の左右ニ植可申事」とあるのが初見で、枯れたり倒れたりした場合は、植継ぎを義務づけられていた。
 本藩領の交通は、海陸とも代官が管轄していた。現下松市域の場合、都濃宰判の代官(花岡代官)が担当である。また支藩領の交通は、支藩が管轄しており、徳山藩の場合、代官と町奉行が担当していた。馬継(駅)での人馬の手当、天下送り等の具体的業務は、市町の目代が差配し、「天下御物送り場」役人のいるところでは、その役人が目代を監督していた。