天下送りとは、幕府関係の書状(「文箱」「状箱」)と同荷物の逓送であり、「於二国中一天下の御用并御物送等不レ限二夜日(よるひる)一、蔵入人給共ニ無レ緩(ゆるがせ)可レ遂二其節一」(「二十八冊御書付」慶安四年(一六五一))と、大変重視されていた。その内容をより具体的にみると、幕府老中・大坂町奉行・大坂城番衆から長崎その他へ、長崎奉行衆・天草代官や、九州筋への幕府上使から江戸・大坂へ、対馬・九州大名から江戸・大坂へ送られる「御状箱・御送物等」をいい、国継(くにつぎ)の触状(差出者から各領分馬継船継宛)を伴っていた(毛利家文庫「大記録」)。海路も陸路もありえ、昼夜を分かたない飛脚便であった。天下送りに関しての注意書(「御触書其外後規要集」明暦三年(一六五七)三月九日、『山口県史料』)によると、「御送物」、「御公儀よりの国継の御送状」、それに「前の宿(しゅく)よりの送状」の三者をよく点検し、「損所」等がある場合書き付け、刻付(こくづけ)を必ず記して、次の宿(馬継)へ送る。一時(二時間)に三里が目安の飛脚便で、遅延すると、「遅々手形」を書き、汚損等が生ずると、発見した宿がその旨を記すので、責任が明確になる仕組であった。
徳山藩「御蔵本日記」の記事によると、「天下御荷物送り」が多くなり、「しふき替御穿鑿」(雨包みに関するトラブルと考えられる)以来、点検が慎重になりすぎて、送り状が長文になったという(宝永三年(一七〇六)十月晦日条)。また長崎から江戸への荷物一八箇と状箱二つが徳山に着き、送り出したところ、夜来の大雨で和田川(末武川)が増水して渡れなかった(橋が落ちていた)。荷物を久米市に控えておいて、久米の目代・庄屋に「川瀬踏」を申し付け、水が引き次第渡して花岡へ引き渡したが、「少々之延引」のみだったので「遅々手形」に及ばなかったこと(宝永六年七月二十三日条)など興味深い事実を述べている。「天下送り御状箱」が、どのように扱われていたかをみると、木綿のゆたん(油単、ひとえの布・紙などに油をひいたもので、水気・油の汚れなどを防ぐ)で状箱を包み、更にそれを「上箱(うわばこ)」に入れ、棒を通して運んだ。久保市天下送り所の状箱の上箱は、一尺三寸、一尺一寸、深さ一尺二寸であった(元禄九年(一六九六)六月二十八日、七月十三日条)。
当時の飛脚の速度を、徳山藩の飛脚でみると、十一月九日江戸仕出の早飛脚二人が、十一月二十八日に徳山に着いている。二十日かかったわけで、この場合、大坂-下津井(岡山県)間は船であった(同、元禄三年条)。三月十九日江戸仕出の飛脚が四月九日に宮ノ洲に着いており、この場合も約二〇日を要した。三月二十八日大坂出船で、海上は「御手水主(かこ)」(藩の水夫)による航海であった(同、宝永三年条)。
一七〇六年(宝永三)八月八日条によれば、近年天下送りの荷物が多く、久保市は小町(「御領内町方目安」では家数五一軒、岡市をあわせても六九軒)なので、持夫の駆り出しに難儀している。そこで去年(宝永二)から荷物一〇個までは、久保市が送り、それ以上は、山田村河内村から加勢するということになった(河内村からは去年以来五六〇人余差し出したという)。しかし、両村とも難儀なので、生野屋村・来巻村も加え、「仕送り夫之多少ニ不レ限、一度宛替り/\」に加勢を出すことにし、「一番河内、二番生野や、三番山田・来巻」と決めている。この記事で注目されるのは、天下送りは基本的には馬継の市町(徳山藩では町方)の負担と考えられていたこと、このころは荷物が多くなっていたこと、そのため近村に加勢が求められていたこと、などである。同時期、垰市も諸送りの役で疲弊し、徳山藩から銀二〇〇匁の心付を受けている(同、宝永二年十二月四日条)。