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大規模通行と人馬仕出

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 領内を通行する大規模通行は、①幕府役人(長崎奉行・天草代官・諸種の上使)・奉幣使・遊行上人、②九州筋の大名、③藩主・支藩主などであった。①は、将軍朱印・老中奉書による無賃通行や御定賃銭通行(二五人・二五疋までは定めの安い賃銭、それ以上は相対(あいたい)賃銭)、②は御定賃銭通行と、特権に差があったが、
御伝馬・駄賃馬の分(わかち)有之事ニ候得共、駄賃銭払可申と於申ニハ請取せ可申、此方より駄賃銭の事申ニハ不及候、此段目代共え能(よく)々可申聞
と、藩では賃銭が要求できる場合でも、相手が払うと言わないときは請求するなと目代に指導していた(「御書付其外後規要集」天和三年四月二十五日)。右の諸事情や、実際には雇われた数以上に人馬を出さねばならない事情なども加わって、現人馬(実際に出た人馬)に支払わねばならない賃銭と、特権的利用者の支払った賃銭との間に差がある。これは間欠(あいかけ)銀といって、結局、郡配当米や足役貫(つなぎ)という形で市町・村々の負担となった。
 大名通行の具体的事例として、松平左衛門佐(佐賀藩鍋嶋家)の場合をみてみよう。一七〇六年(宝永三)十二月二十二日に徳山藩に情報が入って、鍋嶋一行は明二十三日に関戸を出発し、今市に昼休、福川に宿泊の予定であり、人足二〇〇人、馬五〇疋、籠(かご)二〇挺が必要とのことであった。そこで町奉行・代官が相談のうえ、町方人足一三〇人・馬三〇疋、地方人足一〇〇人・馬四〇疋を徴発する触を出した。人足三〇人、馬二〇疋分多いのは、「用心」のためである。ところが日程、人馬ともに予定と違い、人足三一八人、馬九〇疋も必要(福川での継立の数と思われる)で、不足の分は花岡からの馬をそのまま富海まで行かせ、追って触れ出した馬をあとから追いかけさせることになった(「御蔵本日記」)。
 一七一六年(享保元)松平藩摩守(鹿児島藩嶋津家)の陸路参勤の折には、供(とも)人数六二四人の一行で、一五二八人、馬二一九疋もの人馬が徴発された。八月一日に福川本陣福田宇右衛門宅に宿泊、八月二日の昼休みは、花岡御茶屋であり、花岡市の竹屋武兵衛が入亭主(接待主)を勤めた(「大記録」)。
 徳山藩主の参勤は、それまでもっぱら船路で大坂や室(現兵庫県)まで上っていたが、一六九四年(元禄七)にはじめて陸路を大坂へ向かった。三月三日徳山を発ち、久保市原田善左衛門の所(御茶屋)で昼休み、高森で宿泊。家臣の見送りがあったことはもちろん、下松町の年寄・目代である「いか崎善右衛門・磯部善右衛門」「小嶋助之丞」も久保市に出、西豊井・東豊井・河内・山田・生野屋の庄屋は道筋に出て見送った。供人数の一部は、船で行かせた。翌年の帰国のさいは、「中国路御用」の「日用」(日傭人足)四〇名を迎船で大坂に登せており、中国路を陸路下った。五月二十二日の着当日には、町馬二五疋、用心馬(在郷馬)一〇疋、人足五〇人(町・地方申し合わせて)を久保市昼休み(御茶屋)まで差し出した(「御蔵本日記」)。
 徳山藩では、一七三六年(享保二十一)二月二十三日に、これまでは員数に応じて町方・地方で人馬を出してきたが、「往還道之義は町方本役之事ニ候間、向後人足ハ五百人、継馬ハ五十疋迄ハ町方より可差出候」と命じた(「徳山藩史」)。ここでも継人馬は本来町方(徳山町と市町)で出すべきだとする考え方のあることを知るが、五〇〇人、五〇疋は相当の数である。
 宿馬駄賃(馬に荷を運ばせる)について、一六九〇年(元禄三)に、徳山藩から一里銀五分を四分にせよという命令が出ている(「御蔵本日記」四月二十三日条)。このころの和市(わし)(相場)は、金一両=銀五三匁=銭四貫文くらいなので、銀四分とは銭三〇文くらいに当たる。一七四一年(寛保元)には、徳山下松間二里が六四文の定めであった(「御領内町方目安」)から、さほど変化がない。一里三二文の駄賃というのは、一七一三年(正徳三)六月二十八日の本藩の定に規定されたともみられる(「二十八冊御書付」)。しかし米価は、一六九四年(元禄七)が、銀一〇〇匁に二石七斗(銀四分で一升八勺買える)、一七〇二年(元禄十五)が、銀一〇〇匁に一石三斗(銀四分で五合二勺買える)と、ほぼ倍に値上がりしている趨勢(「御蔵本日記」)の中では、賃銭の著しい低減である。相当無理な賃銭規定ではなかったかと推定される。