近世前期には、幕府役人・大名とも海路の上下が多い。前掲一六九四年(元禄七)の徳山藩主の陸路転換は、比較的早いほうに属する。島津氏は一七一六年(享保元)、毛利本家は一七二四年(享保九)ごろ陸路に転じ、近世中期から比較的陸路が多くなるが、大名の絶対数では依然海路が多い。
本藩主の海路通行では、徳山藩から水船五艘薪船五艘の馳走があり、家老が挨拶に出向く(帰国のさいは上関まで出向く)。参勤のさいには、向嶋→野嶋→粭嶋→笠戸嶋と狼煙(のろし)をあげる(「御蔵本日記」元禄二年三月一日・六日条)。野嶋・粭嶋の狼煙は、徳山藩の管轄で、狼煙の焼草は三〇把くらい必要であった(同、宝永六年二月十九日条)。幕府役人・大名の通行のさいも、御用はないかと挨拶に行き、所望された場合は水・薪・野菜・漕船などを提供した。交通が滞りなく行われることは、公的な役と考えられ、究極的には将軍への馳走と考えられていた。本藩の場合は、花岡代官が差配し、笠戸湾で挨拶をした。
徳山藩主の海路参勤の様子を、一六七二年(元禄五)の事例でみると、三月五日に出発で笠戸湾停泊、翌日出帆して、七日昼に上関着、八日晩御手洗泊、十二日に室着。十三・十四日は室に逗留して、陸路を大坂へ向かった。御座船以下は室から帰し、船の半分は大坂へ向かった(同)。
徳山藩の御座船以下は、遠石の船蔵に置いてあり、水につけておくと虫が喰うので陸上げする必要があった。御座船は、町夫一〇〇人を使って陸上げし、船手作事には下松からも船大工を呼んだ(同、元禄二年三月)。参勤帰国には、藩の船では不足し、領内諸浦の廻船を徴発した。
海路の場合、天候によっては揚陸(大名の船酔による揚陸もあった)もありうるので、海陸両用の準備が必要であった。一六七六年(延宝四)七月の事例では、天草から京都への銀六〇貫目の輸送は海路を用いたが、阿知須で揚陸し、富田で宿泊、花岡へ送られている(徳山毛利家文庫「記録所日記」。一七〇五年(宝永二)九月には、熊本藩主細川氏の海路帰国に際し、花岡代官から徳山藩へ依頼があった。依頼の内容は、上関・室積・下松・三田尻での揚陸がありうるので、そうなった場合、下松西市(本藩領馬継)は手狭なので下松東市(徳山藩領)に人馬を集めたい。徳山藩が福川へ集める人馬を下松に寄せてもらえば、福川から宮市へは本藩領人馬で用を足したい、というものであった。徳山藩の対応は、地方の人夫一〇〇人と馬六〇疋を下松に寄せ、福川での継馬は町方馬のみの手筈としている(「御蔵本日記」)。