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徳山領の町々

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 一七四一年(寛保元)七月の「御領内町方目安」によると、徳山領の町は、徳山本町(橋本町・糀町・幸丁・佐渡町・油屋丁・野上丁・郷田丁)・東浜崎丁・西浜崎丁・徳山東船町・徳山西船町・徳山新町・徳山吉屋丁・徳山鳥井丁・徳山田町・徳山寺町・徳山間ノ町・徳山夕顔町・徳山小沢町が徳山城下にあった。西浜崎町までを年寄三名・目代一名、両船町を目代一名、新町以下を年寄一名・目代一名で管轄していた。後述するように、徳山藩では、城下町・市町を町方として町奉行支配としたが、小沢町は、「地方町」のゆえに代官支配とし、「火番自身番掃除等之義ハ、新町七丁之並を請ケ、新町役人より沙汰」をすることとした。徳山城下以外の市町(在町)は、下松町(中川原町・中市・東市・新町)・岡市町・久保市町・垰市町・遠石町(西町・東町)・富田新町(五日市・十三日市・廿四日市・横町)・古市町・平野町・福川町(東町・中町・中市・西町)・夜市町・富海町の一一カ町であり、それぞれ年寄・目代が置かれていたが、岡市町のみは置かれず、久保市町の支配とされていた。
 右のうち現下松市域の町は、下松町(中川原町・中市・東市・新町)・岡市町・久保市町・垰市町であるから、少し詳しくみてみよう。これら徳山領の町に本藩領の花岡を加えると、現市域内の全市町となる。下松町は、中市・東市・新町(前述したように一六七七年(延宝五)町立と推定)・中川原町(一七一二年(正徳二)町方支配に)からなり、「本通り筋」(「表向」とも表現する)の家数二二七軒(うち瓦屋三五、板屋二一、茅(かや)屋一七一)、人数一〇一九人である。職人が、紺屋八人、鍛冶屋七人、家大工二人、船大工二人、桶大工四人、屋根葺一人、挑灯屋一人、仕立屋一人、畳屋二人の計二八人おり、彼らは「水役」(職人役)を負担していた。酒屋も五軒あった。下松町には、「本通り筋」のほかに、「裏町」(八一軒)と「裏ノ裏町」(五四軒)があり、六八五人が住んでいた。「いさは船」(二〇石から七〇石積)二四艘、「漁船」(八石積)六一艘、「小漁船」一四艘があり、下松は有力な浦町でもあった。この時点の下松町年寄役は、中村新助・吉田伝右衛門・磯部吉右衛門の三人で、目代役は石田源左衛門が勤めていた。
 岡市町は、家数一八軒、人数八八人であり、「久保市町支配」(久保市の年寄・目代があわせて管轄する)であった。久保市町は、家数五一軒(うち瓦屋一軒)、人数二六三人で、年寄原田善左衛門(酒屋であり、御茶屋を預かっていた)・目代藤井源右衛門であった。久保市には、「宿馬」(伝馬・手当馬)一〇疋があり、御茶屋があった。この岡市・久保市「両町役目銀トして」銀六〇〇匁、「地方(じかた)石割賦役目銀トして」銀六〇匁が、毎年藩から支給された。「役目銀」とは、継送り人馬の徴発による疲弊を勘案して、藩から支給した心付銀と考えられる。垰市町は、家数一四軒、人数五〇人で、目代役黒川平左衛門がいた。「役目銀」として、銀二〇〇匁が毎年藩から支給されている。「御蔵本日記」にも、垰市が近年困窮して「諸送御役等も」勤めがたく、「御心付銀弐百目」を支給している記事がある(宝永二年十二月四日条)から、役目が継送りを指すことは明らかである。山陽道沿いのこれらの市町(本藩領の花岡市も)は、通行に支えられているが、同時にその通行によって疲弊も生じかねなかったのである。

地下上申絵図、下松町付近(山口県文書館蔵)