徳山藩では、町奉行が徳山城下町のみでなく、領内市町一一カ町をも支配し、代官の「地方(じかた)支配」に対して、「町方(まちかた)支配」と呼んでいた。一六七七年(延宝五)八月二十三日に、大野弥次兵衛から原仁左衛門に町奉行が交替するさい、国元から江戸の藩主(この頃病気でずっと帰国しなかった)へ伺いをたてた。以前は、町奉行の人選・任命は国元に任せていたが、七六年筆頭家老の桂民部(帰参が許されたばかり)と神村将監に交替で当職を勤めることを命じたほか、郡代・代官のあり方を改めたさい、このような重要な案件は伺うように命じたためである(「記録所日記」)。役方と家臣団掌握の強化を企図していたものと解される。以後の町奉行を「御蔵本日記」でみると、長浜弥大夫、光井重郎右衛門、大野八之丞、福間彦四郎、片岡弥五兵衛、大野儀兵衛(寺社奉行兼役)などの名がみえる。長浜弥大夫から光井重郎右衛門に町奉行が交替した八九年(元禄二)七月一日、手子役として勝屋平七が任命されており、町奉行の下に手子役一人がつけられること(代官には二名つく)を知る(「御蔵本日記」)。町役人の町年寄・目代は、町人から任命された。
町奉行に宛てた「定」三八カ条(「記録類纂」)によって、町政の概略をみておこう。まず、「徳山本町筋東西之端まて、其外脇町共ニ」徳山城下町と、富海市から垰市までの市町「惣而町々端迄家有次第」を町奉行の支配とする。他領から使者があったら、町年寄・目代から知らせに来させ、手子が使者を下宿(使者の落着先)に案内し、町奉行へ知らせる。町奉行から当職へ知らせ、町奉行か手子が相応の「馳走」をする。因みに、天下送りのあった場合、徳山通過のたびに、町奉行から当職へ報告している(「御蔵本日記」)。諸町の屋敷数・男女人数・牛馬数を隔年で調査する。諸宿の役馬について、「御定」馬(常備馬、手当馬)が何疋で、実際に何疋いるかをいつもよく知っておき、諸宿への「馬代銀公借之分」(役馬の買銀を藩が貸与している)を承知しておく必要があった。徳山本町の地料銀(地子)は、一軒につき銀三匁七分八厘を免除し、徳山新町のそれも免除(その代わり頭町人の役に召使われる)であった。
徳山城下町の町屋(侍屋敷でなく町人の居住区)に侍や武家奉公人が家を持っている場合は、町役・火用心役を町人と同様に勤めること。火用心のため、一軒に水桶一つ、「火消うちわ・はうき一本ツヽ、行燈壱ツ宛」を常備すること。町人が田畠を作っていても、町役を勤めているから「地方之役」は免除する。往還の道筋は、見苦しくないように(とくに屋敷構え)するのが藩主のためであること。宿の駄賃馬に馬子(まご)が乗っているとき、侍とすれ違う場合は、下馬すること(下馬しないですれ違うと、乗打(のりうち)といって、無礼な行為となる)。「諸浦出入之船并積荷運上物」の究(きわめ)は、浦究(うらきわめ)が行い、町奉行が統轄する。因みに、下松浦究役による年間運上銀は、一七〇四年(宝永元)分が銀一貫五三八匁余、翌年分が二貫一七五匁余であった(同)。米売買値段(毎年九月十日頃定めた)、酒売買値段、豆腐売買値段は藩が公定する。浦町の持船を折々調査し(藩米の大坂運送や参勤上下に徴発する)、漁船も調査しておくこと。籠(牢屋)は、町奉行支配なので、よく気を付けて申し付けよ。遠石祭市・庄寺祭市には、別に押(おさえ)役が出されるが、町奉行も相談して用を勤めること、等々である。