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町役

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 町方の負担は、地料銀(地子)と町役が基本的なものであった。地料銀は、徳山城下町では、一部または全部が免除された。町役については、「御蔵本日記」に次のような記事がある。一六九〇年(元禄三)に下松東市で大火事があり、徳山藩では救済のために米を支給した。そのさい「表家九十九軒、一軒別八木(米)壱俵宛、うら屋五軒、此分半役仕故(ゆえ)半俵宛、先例を以被之候事」とある。表屋(「本通り筋」「表向」とも呼ばれた)は町役の本役を勤めているので米一俵、裏屋は町役を半役勤めているので半俵を支給したというのである。また、この火事のとき、徳山町人足のうち半分が出るように決まっているのに、ほとんど出て来なかった。以後は、近くで火事が発生したさいは、徳山本町から五〇人、徳山新町から三〇人が、火消道具を持って駆け付けるように命じている。ここで言っている人足が、町役の人足であろう。
 さらに、徳山藩の船蔵は、一六八三年(天和三)以降遠石にあったが、御座船(藩主の召船)等を水にずっとつけておくと虫が食うらしく、揚陸する必要があって、「町夫」を九〇~一五〇人使って上げ下ろしをした。この「町夫」も町役の人足と考えられ、その都度船手都合役から当職へ申し出、当職から「町夫」を船蔵へ出すように町奉行に命じた(「御蔵本日記」)。また、「往還道之義は町方本役之事ニ候」(「徳山藩史」所収、元文元年(一七三六)二月二十三日の史料)といわれる。継送りの人馬徴発は、町役の一つとみなされる。町役のほかであったとしても、それは町方がまず負担しなければならない課役であった。